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「これだけ書ければ充分だ」
老婆はりつの書いたいろはを満足げに見ると考えるような素振りを見せる。
「お前の名前は今からあやめだ」
老婆の言葉にりつは首を傾げる。
「私の名前、りつっていいます」
老婆は豪快に笑うとりつの頭を乱暴に撫でた。
「いいかい?吉原には吉原の決まりやしきたりがある。ここでは名前をお捨て。それが嫌なら元いた場所に引き返しな」
りつは首を横に振った。
「や、いや……。戻らない。あやめになる!」
老婆はりつの言葉に頷き、吉原のしきたりなどを丁寧に教えた。
だが幼いりつにはところどころ分からないところがあった。
「明日から覚えていけばいい。今夜はゆっくり休みな」
老婆はりつを大部屋に連れていき、雑魚寝させた。
その翌日からはりつ、もといあやめは姉さん遊女の夕霧に面倒を見てもらうことになった。
夕霧はあやめを可愛がった。あやめは物覚えがよく甘え上手であった。
廓言葉もすらすらと覚えたが、あやめは時折わざと間違えては夕霧に指摘させた。
わざと少し髪を乱しては夕霧に直してもらったりもする。あやめはどうすれば可愛がられるか分かっていたのだ。
あやめは様々な知識と教養を身につけた。中でも将棋はなかなかの腕前で、あやめに勝てる者はほとんどいなかった。
時が経ち、あやめは新造になった。その頃にはあやめの美貌は有名になり、あやめ見たさに夕霧を指名する者もいるくらいだった。
あやめが新造になってひと月が経とうとしている。そんな時期、吉原は騒がしくなった。
夕霧が客と心中を図ったのだ。
大半の者は悲しんだが、あやめはほくそ笑んだ。
別に夕霧が憎かった訳ではない。むしろここまで育ててくれたことに感謝している。だからこそ残念と思う事があった。
(男と恋に落ちるなんて姉さんは愚かざんす。わっちはそんな女にはなりんせん)
心の中でそう誓った。
あやめが世話になってる遊女屋は哀しみよりも怒りが大きかった。
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