877人が本棚に入れています
本棚に追加
ラッキーデイ
ちゅ、と柔らかく少しひんやりとした感触が頬に触れた。
キスをする、される。
それが普通の文化に僕は育っていない。
この国でのキスは『恋人』という特別な者同士で行う、特別な行為なはずなのに。
「――っうわぁぁあぁぁ?!」
特別どころか、ほぼ見ず知らずの他人にそれをされた僕は反射的に――向こう見ずに身体全体を引いて、椅子から転げ落ちる。
「……大丈夫ですか?」
混乱する思考の中で声のした方を向けば、加害者のお兄さんが無感情な瞳で僕を見下ろしている。
「そんなに驚かなくてもいいじゃん! 面白いけど、ちょっと傷つく!」
加害者が席を立ち、床に座りこむ僕に、白く細い指が印象的な手を差し伸べてくる。
(こんなに綺麗な人なのに、どうして僕なんだろう?)
ほぼ思考停止状態で伸ばされた手に掴まる。
美形という言葉の、正解のひとつのような彼を呆然と見つめる。
三日月型に細められた目はきらきらしていて、品良く口角が上がった唇は小さく紅い。
彼は小悪魔、という言葉の正解のひとつでもあるのではないかと思う。
「あの、お兄さん、その……あの……」
小悪魔の手によって立ち上がった僕は、再びお兄さんの視線とかち合う事態になる。
自分は清廉潔白で無実で無罪である、と説明しなければならないと口を開く。
しかしそんなものは無用とばかりにお兄さんは、真綿で首をしめるような調子で、僕の声をつぶすようにさえぎる。
「弟はまだ高校生です。節度ある交際をお願いしますね?」
「……ハイ……」
お兄さんの薄っぺらい笑顔の後ろに隠しきれない濁ったオーラが見えた気がして、僕はただうなずくことしか出来なかった。
今日はなんて最悪な日だろう。
最初のコメントを投稿しよう!