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 後ろ姿に呼びかける言葉を真千子は持たなかった。すがるなどプライドが許さない。誕生日を覚えておく甲斐性くらいはあったわけね、と無意味なひとり言を呟いただけだった。  ――って、夢はおしまいにしたじゃないの。  そう。終わりにするために引っ越したのだ。住まいから彼の痕跡を消した。  新しい部屋は、築三十年の古びたアパートで、三階だがエレベーターはない。貧乏でもない独身女が住むにはあまりに惨めな気もしたが、一刻も早く越したかったことと職場に通いやすく近すぎない距離で適当な家賃と考えると、こんな部屋しかなかったのだ。  それでも、カーテンは気に入りのものに買い替えたし、前の住人が汚したとかで貼り替えることになった壁紙は真千子の好みの柄を選んでもらえた。水周りもリフォーム済みで住むに全く支障はない。ペット可の物件であることだし、昔飼っていたロシアンブルーによく似た猫でも飼おうか、と思っている。  今日は誕生日なのだ。仕事を早く終わらせてパン屋でバゲットを買おう。閉店が早くて寄れたことがないケーキ屋でケーキも買おう。  顔を洗って化粧水をはたく。歯も磨いて化粧も済ませる。行ってきます、と誰もいない空間に声を掛け、真千子は駅へと急いだ。
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