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「……山南さんの爪の垢が欲しいんですよ」 「……ええー?」 俺、井上伸也が疲れた声で切り出すと、山南さんは困った顔で、軽く指先を丸めた左手を掲げその爪先を見た。 「……いや、本当に爪の垢今渡されても困りますけど」 「うん分かってる。良くある慣用句だけど実際にやるとなるとどうなのかなってふと思って、想像してみたけどやっぱり気持ち悪いね」 そう言って山南さんは指先をわきわきと動かしてから元に戻した。 なんとなく俺もそのとき山南さんの指を覗き見てみたけど、その爪は綺麗に切り揃えられていたので垢をとるのは難しそうだな、と下らないことを思った。 山南さんの左手はそのまま烏龍茶のグラスに伸びる。 俺たちが今居るのは、署を出て最寄り駅に向かったところで、そこから駅の向こう側に出てから少し歩いたところにある焼き鳥屋である。 本日の勤務時間を終えて引き上げるときに、偶々山南さんも同じようにしているところに行きあったので俺から声をかけた。 ……暫く前、この町で起きた連続殺人事件。 その時に、俺は特にこの人に助けて貰うことになった。 その後はといえば、あんな凶悪な事件などそうそう起こってたまるものでもなく。 刑事として日々働いてはいるが、特にこの人に積極的に関わらねばならないようなことは起きていない。 それでも俺は、あの事件以来、この人のことが気になって仕方がなかった。 だから今日こうして、何とはなしに夕飯に誘い出してみたわけである。
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