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それから一年ほど経って、父は池之端に妾を囲った。
吉原の大見世で最上位の花魁だったらしい。赤新聞にも書き立てられた父が、どうせなら派手に、と身請けには二千万円もの金をかけたのだそうだ。
その女が挨拶にやってきた。僕は二千万円の女を見てやろうと、女中が止めるのを振り切って母屋の玄関まで覗きに行った。ちょうど黒紋付の羽織に青磁色の色無地、という地味な形の女が頭を下げているところだった。僕は柱の影に隠れて成り行きを見ていた。
「――でございます」
「よく来ました。ご苦労さん」
母が上がれといわなかったので、女はそのまま草履を脱ぐと三和土に正座をした。寸分の狂いもなく仕立てられた足袋の裏の白さが僕の目を射た。そこで三つ指をついた女を母は式台の上から立ったまま見下ろして、「宅をよろしくお願いしますよ」とだけ声をかけた。女の瑞々しく結い上げられた大丸髷と、美しく手入れされた白い項がすぅっと下がった。
「何分、物に慣れぬふつつか者ではございますがよろしくお導きください」
とおっとりと言ったあとで、女はすいっと顔を上げた。
「あ」
僕は覗き見しているのも忘れて間抜けな声を出した。天女だった。
「なんですね。そんなところで」
母の叱責が飛んできたが、僕は天女から目が離せなかった。天女は僕をみつけて、少し目を瞠ったが、ふっと柔らかく微笑んだ。白い肌に紅をひと刷毛さっと掃いたような美しい笑顔はまるで酔芙蓉のようだった。
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