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「おい、文代、文代」
僕が呼ぶと、はーい、ただいま、と答える声がした。ぱたぱたと小さな足音を立てて、こざっぱりとした浴衣に着替えた妻が前掛けで手を拭きながら書斎に入ってきた。
「扇ぎましょうかね。蒸すわねえ」
そんなことを呟きながら、浴衣の襟を寛げた。
「いや。少し何か弾いてくれないかね」
「そりゃようござんすが、もうお仕事はおしまいですか」
今度は妻が僕の飽きっぽさを笑うように、少々非難するような口調で尋ねた。
「ああ。草臥れてしまった。最近の学生たちは不勉強でいけないよ。それに人さまに読んでもらおうという心配りが全く足りない。いっそ皆、落第させるかな」
「おやおや、あなたみたいな先生にあたっちまった学生さんは気の毒ねえ」
笑いながら妻は立て掛けてあった琴を灼けた畳の上に静かに置く。琴柱を立て、琴爪を嵌めた。残り少なになった陽を受けて琴に嵌め込まれている千鳥と波が金色にチカリ、チカリと光った。妻は調子をみるために弦を弾いていたかと思うと、じゃらん、と一気に上から下へと弾き下ろした。稽古に来る女学生たちや、母が出す音とは天と地ほども違う音が響く。僕はごろりと横になり目を瞑った。
琴の音を聞くと必ずあの日のことを思い出す。否、あの日を思い出したくて、妻に琴を弾かせるのかもしれない。
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