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琴の音
西日が家々の瓦を輝かせ、木々を、道を、黄金色に染める頃、風呂敷包みを小脇に抱えて勤め先の中学校から帰ってきた僕は、磨り減って丸くなった石段の途中から崖下の我が家を見るともなしに見た。ちょうど玄関から薄い藤色の単物を着た若い娘が丁寧に頭を下げて出て来るところだった。束髪につけた大きな紗の紫色のリボンが揺れる。日傘を差した娘が石段をいささか元気よすぎるほどに伸びやかに上がってきて、すれ違いざまに、あっと僕に気づき、恥ずかしそうに頭を下げた。
「もう稽古は終わったんですか」
「はい」
「どうです。上手く浚えましたか」
「お師匠さんは褒めてくだすったのですが、どうにも思うような音がだせませんで」
「そうですか。それでも妻が褒めたのなら余程いいのでしょう」
妻ほどに三味線や琴が弾けるものは東京広しといえどもそうはいない。
「秋のお浚い会までにはなんとか……」
「その日は僕も呼ばれているんでね。楽しみにしていますよ。今日はひとりですか」
「坂の上まで女中が迎えに参りますの」
「それなら安心だ。気をつけてお帰りなさい」
「はい。ごきげんよう」
恥ずかしそうに娘は小声で言うと、急な石段を坂の上へと再び裾も気にせずに上がっていった。
僕は娘の後ろ姿を見送ってから、残り半分の石段を下ると、門のない家の前に立って、ガラガラと戸を開けた。
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