◇ side. Kai ◇

1/1
前へ
/13ページ
次へ

◇ side. Kai ◇

 廊下へと出た瞬間、甲斐は唐突に腕を引かれた。声をあげる間もなく口許を何かで覆われ、漏れ出るのは小さな呻きだけである。甲斐が視線を動かせば、同じように背後から押さえられた隼人の姿を見ることが出来た。  ―――誘拐か?  一瞬、甲斐の脳裏を過ったのはそんな事である。隼人にせよ甲斐にせよ、見る者が見れば素性は一発でバレるだろう。しかも、身代金を要求するようなタイプの犯罪者には、これ以上はないほど極上の獲物と言っていい。当然本人たちにも自覚はあり、些か行動が軽率だったと後悔する。  険しい表情をしたまま、隼人がどうにか出てきたばかりのドアを蹴ろうとするものの、それはあっさりと阻止されてしまった。ついでに腹部を蹴り上げられて、隼人の躰が前のめりに折れる。  その様子に、必死に頭を振ったのは甲斐だ。これ以上、相手を刺激するなと。隼人の視線が悔しそうな色に揺らぐ。だが、それ以上隼人は動こうとはしなかった。 『歩け』  男たちはスーツを纏っているが、その下の胸のふくらみが筋肉なのだとしたら相当なものだと思う。男たちの目的が何であるのか不明なまま、甲斐が隼人とともに連れていかれたのはメインの食堂だった。  部屋に入るなり後ろ手に拘束され、ガムテープを口許に張り付けられた。ご丁寧にテーブルが避けられ、椅子が壁際に積み上げられているそこには、同じような姿の他の乗客たちもいる。 『座れ』  甲斐はぐい…と肩を押されて床に膝をついたが、隼人は手荒に床へと突き飛ばされた。どうやら、先ほど暴れた腹いせだろうか。甲斐と隼人をここまで連行してきた男たちは、だがあっという間に二人に興味を失ったようだった。  ―――俺たちが目的という訳ではないのか…?  他の乗客たちがそうしているように、隼人が甲斐へと身を寄せる。口許を塞がれていて喋る事は出来ないが、恋人同士である二人は、視線や僅かな動きである程度の意思疎通が可能だった。  明らかに申し訳なさそうな色を浮かべた隼人に、甲斐が僅かに目元を緩める。それにコクリと小さく頷いて、隼人が周囲に視線を走らせた。つられるように、甲斐もまた辺りを窺う。  ―――乗客はほぼ全員ここに集められてるってところか。あいつらは、気付くだろうか。  部屋に残してきた八人が気にかかる。だが、甲斐と隼人が戻らなければ必ず気付くだろう。それとも、既に気付いている可能性も高い。甲斐は、辰巳を信頼している。何かが起きたと気付けば、必ず探しに出るだろう事は疑う余地もなかった。  視界の端で隼人が動き、甲斐がそちらへと目を遣れば、隼人が僅かに首を倒す。少し奥へ移動しようという事だった。  男たちに気付かれぬよう、じりじりと床の上をさがる。一度見張り役の男がこちらを振り向いたが、怯えて身を寄せ合う乗客たちなど気にもしないのか、あっさりと視線を戻した。  ―――いったい目的はなんだ?  やがて他の乗客たちに紛れ壁際へとさがった甲斐の影で、隼人が後ろ手でゴソゴソと動き出す。器用に片足を浮かせて隼人は靴底を弄ると、そこから小さなカッターナイフが姿を現した。  日本最大級の企業グループ。そのトップともなれば、こういったトラブルは一応想定している。今夜、警護の人間をそばにつけなかったのは、他でもない辰巳がいたからだった。  器用に手を動かして、隼人が甲斐の腕を縛っている縄を切り始める。  この船は数時間もすれば港に戻る筈だが、この分ではどうなるか分からない。燃料の都合はあるにせよ、東京湾だけでも接岸できる場所は他にいくらでもあるだろう。  取り敢えず今は騒がずにいる事が最善だろうと思う甲斐は、隼人の手によって腕の自由を手に入れる事に成功した。だが、それはあくまでも形だけで腕は後ろに組んだままだ。  隼人の手から小さなカッターナイフを受け取り、今度は甲斐が隼人の縄を切る。これでどうにか、いざという時に動く手筈は整った。甲斐も隼人も、ただ大人しく待っているような性格ではない。  視線を交わし合い、壁に背中を預けるようにして甲斐と隼人は並びながら、躰の後ろで手を握り合う。あとは、辰巳が迎えに来るまで体力を温存しているのがこの二人にとっては最優先事項だった。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

268人が本棚に入れています
本棚に追加