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虎彦はいつの間にか奥からお茶を運んで来て早矢兎の前に置き、老人の隣に座って何か書きものを始めた。時折こちらを窺っている。穏やかそうな挙動とは裏腹に彼の瞳には獲物を見つけた獣の様な光が灯っていた。
ひとしきり話をして処方された生薬を受け取った。
「有難うございます、それではこれでお暇します」と立ち上がった早矢兎は酷い眩暈に見舞われた。視界が暗転し世界の上下が分からなくなる。
気が付くと真っ暗な部屋にいた。否、光はないがそこに壁や天井や床の気配もなく生体標本の様に空間の中空に固定されている気分がする。
「おやおや、矢張りお強い御方ですね。この状態で平常心で居られるとは」
温かく柔らかい何かが早矢兎の頬を撫でた。生き物の気配が自分の横を通り過ぎて前方に移動するのを感じた。
暗闇に目が慣れたのか眼前の塊の輪郭が少しずつ浮かび上がってゆく。
あれは虎彦と漢方堂の主人の筈だが随分と雰囲気が違う。
腕を組んだ虎彦の表情は傲然としておりその後ろにいつもの笑顔をたたえた老人が控える様に立っている。
華奢ではあるが早矢兎のそれより大きな虎彦の手がゆっくりと早矢兎の顎を掴んだ。何をされるかと身構える間もなく眼前に薄い色の目が光り虎彦が鼻先まで顔を近づいた。
すん、と鼻を鳴らし虎彦は満足そうに目を細めて微笑んだ。
「口をお開きなさい」
身体の芯が麻痺する様な深く心地よい響きが鼓膜を震わせる。抗う事は既に選択肢にはなく言われるが儘に早矢兎は閉じていた唇を緩めた。人間の舌とは思えない広く薄い舌がするりと入ってきて口の奥に向かって舐め進められる。思わずえづき唾液がどっと出たところを、ぢゅうと音を立てて吸われて早矢兎は目尻に涙を浮かべた。
咥内から引き抜かれた舌が今度はその涙を掬い取り、次いで耳元を舐り上げた。明らかに人とは違うそのざらつきに身を竦めつつもすぐ傍で聞こえる温かく荒い息遣いに早矢兎の身体が疼いた。それに気づいたかの様に空気を震わせる笑い声がしてその後に虎彦の声が聞こえた。
「思った通り御宅の漢方医は随分とものぐさな様で…いやここ迄くると意図的なのか」
身体が柔らかい闇から浮かび上がり視界が明るくなるにつれ声は遠ざかっていった。
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