背中

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雑踏の中に君によく似た背中を見つけた。か細く生真面目で、掴もうとすると雪のように消えてしまいそうな、脆く儚い背中。 君じゃないとわかっていても、未練がましく目で追ってしまう。もうこの街のどこを探しても、君はいないのに。 いつもの駅のベンチ。そこで君と話すことはもう、ないのだろう。 終電も間近の駅のベンチに腰掛けて、音もなく透明な涙を流している。それが初めて見た君の姿だった。 声を出すことも肩を震わせることもなく、ただ涙を流していた。どこか凛とした美しさがあるその姿に僕は惹かれた。 近づいてハンカチを差し出すと君は驚いたように目を見開き、澄んだ声で礼を言って受け取った。 君は軽く涙を拭って「ふられてしまったんです」と呟いた。 「ごめんなさい、いきなりこんなことを言われても困りますよね」 迷子のようにそう言う君は、ひどく切なく見えた。行き場を失った想いを抱えていたからだろうか。 「電車が来るまででよければ、話を聞かせてください」 一人分の距離を置いてベンチに座った僕を見て、君はさっきよりも柔らかな声音で礼を言った。 それから僕は君と、何度かそのベンチで話をした。天気やニュースといった当たり障りのない話から、恋愛や思想などの込み入った話まで。 しかしお互いの名前だけは聞かなかったし、言わなかった。名前を知ってしまえば、魔法がとけるように消えてしまいそうだったから。きっと僕たちはそんな思いを共有していた。 名前も知らないけど、何でも話せる隣人。 それは他人から見たらひどく不可解な関係だろう。だけど僕たちにはその関係が心地よかった。 君は恋多いわりに、男を見る目があまりよくなかった。 プライドだけは高い売れないミュージシャン。自分にしか興味がない俳優の卵。夢ばかり語る自称漫画家。そんなのばかりだ。 「自分には語れるものが何もないから、そんな人たちに惹かれるのかもしれない」 遠くを見るような目をした君は、確かなものを探しているように思えた。なにがあっても決して揺るがない、そういう類いのものを。 君は誰かと同じものを見つめて、自分にもそれがあると思いたかったのだろう。いわゆる夢とか希望とか呼ばれるものが。 淡雪のようにささやかなものだと、わかっていても。
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