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翠川が顔をうずめている僕の肩が、濡れたような気がした。
「萌峯、痛いの?」
アナルにはひりつく痛みがあるが、それよりも微動だにしない翠川が心配だった。
「萌峯……?」
背中を丸めて顔を覗き込むと、僕が肘を置いていたせいでクシャクシャになってしまった髪の隙間で、頬を伝うものが見える。
「泣くほど痛いの?!ごめん、僕が無茶なこと言ったから」
「瀬奈が生きていてくれて良かった」
「え……」
「床下から見つけたとき、駄目かと思った。今度こそ、本当にあなたを失うことになるかもしれないと、人生で初めて恐怖を感じたんです」
――それなのに、今のほうが幸せすぎて怖い。
翠川の語尾が乱れた。ただそれだけなのに、彼の心根に触れたような気がして鼻の奥がツンとする。
「幸せに不慣れすぎだよね、お互い」
幸せすぎて怖いのは僕も同じだ。失う絶望を知っているから、幸せという感覚にうかつに手を出せなくなってしまった。翠川をそうしてしまったのは、僕なのかもしれない。
「……もう!急にどうしたの」
見ていられなくて、僕は翠川の髪に指を絡ませグイッと引き寄せた。
「年取って、涙もろくなったんじゃない」
「そうかもしれません」
「そこは、否定してよ」
額を合わせると、僕らはどちらからともなく静かに笑い合った。
「萌峯――」
それとなく鼻をすすり上げる翠川に、気持ちが抑えきれない。
「はい」
僕の人生で、死を悼んでくれる人が少なくとも一人いる。
地獄の沙汰も金次第、とは良く言ったものでお爺ちゃんが亡きあとも老若男女問わず、誰もが僕にかしづいた。けして僕が認められたわけではなく、柴崎の名と金の元にーー。
虚しくて仕方がなかった。
この五年間、お爺ちゃんが作り出した虚像の中であがく亡霊のようで、僕は生きている実感がなかった。
「萌峯、好き」
そんな僕が、背中にできた傷のおかげで初めて生に執着した。翠川にもう一度会いたいと強く願った。
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