「初めまして」

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「初めまして」

大きな月が柔らかく世界を照らす。雲一つない星空。ビルが隣接する集合住宅地で、ひとつのビルの屋上の人影。 赤いマントを風に揺らし、長いまつ毛の奥に光る瞳が、ただ一点を見つめていた。 「……見つけた」 はぁ、はぁ、はぁ。と、学校の通学路から少しはずれ、細道に入っていく。もう走る脚も振っている腕も酷く痛むしだるいが、それでも動かさないといけない。暖かく、何処か風が肌寒い季節だというのに、ワイシャツの上にパーカーを羽織った体は汗でぐしょぐしょだ。しかし、そのパーカーを脱ぐ事も汗をハンカチで拭う事もしない、いや出来ない。 何故なら、止まるのが恐ろしいから。 『どうしてこんなことに……! 』 そう考えるのは一体何回目だろうか、頭も痛くなって何も考えられなくなってきた。今はただ、少しでも永く走れるようにするだけ。 がむしゃらに駆けていく少女を見て、人々は口々に言う。 「すごく速い子だったね」 「なんであんなに急いでいるんだろうな」 少女が通過した後、少しして突風が吹き、人々は首を傾げた。 その様子を振り返りざまに見た少女は、街の人々の反応に疑問を抱いた。 『何故誰もおかしいと思わないの?』 このまま真っ直ぐ行くと、商店街へ続く大通りに出る。そこには交番がある。少女は穏やかな微笑みで立っている警察官に縋り付くように声をかけた。 「助けてください、あの変な化け物が追いかけてくるんです」 血相変えた少女に一瞬どきりとしたものの、少女が指さす先には何も見えない。 「化け物?本当かい?何もいないけど…」 「え、あれが見えないんですか」 すると、隣にいたふくよかな警察官が声を上げて笑った。 「暖かくなって、眠たくなる時期だからなぁ。幻覚か、白昼夢でも見たんじゃないか」 「そんな…」 少女は自分の走って来た道を振り返った。幻覚なのだろうか、じぃっと一点を見つめ、アレが実在しているか否かを判断しようとした。 すると、ゴトンっと音を立て、道においてあったゴミ箱が動いた。 『幻覚なんかじゃない!』 「あれ?今なんか、ゴミ箱動いた…?」 「誰かぶつかったんだろう?」 警察官のその素っ頓狂な反応に、あれは自分にしか見えないのではないかと考えた。ならば助けを他に求めた所で意味は無い。自分の力で撒くしかないのだ。 少女はすぐに駆け出した。ちょっと、君、といった警察官の声など聞こえやしない。遠ざかる少女の速度はあまりにも速く、イマドキの子は大したものだと感心した直後、全身をぬるりと撫でるような突風が吹いた。 「まるで、風に追われているみたいだ…」 それ以来どれ程走っていただろうか、時間を確認する余裕は無い。思考はアレをどう撒くか、そして何処へ行けば信号等に引っ掛からないかそれを考えるだけでいっぱいいっぱいだ。賑やかな大通りを抜け、細道を通り、幾つか住宅地とビル街を回った後、少女はとうとう人通りの少ない路地裏へとやって来てしまった。しかし、人には体力の限界というものがあり、この少女は良くやった方だった。いや、普通の人だったらとっくに動けなくなっていたであろう。大した体力である。 路地裏には相続権の問題から所有者が分からず放置されてしまい、近所では子供の秘密基地と化したり、心霊スポットとして囁かれている廃墟が点在している。その中で、まだ鍵や柵すらも無い建物に入り込んだ。 扉を閉めてそこにもたれる形で座り込む。内開きの扉の為、そこに座ると少女の身体ごと動かす必要性がある。 脚がガタガタと震え、ぐったりとうなだれてしまっていた。体の限界だ、良くやったと自分を褒める。周りの静かな空気に少しずつ息を整えながら、気配を殺し神経を尖らせる。 『撒けた…?』 扉のすぐ近くには、小さな窓がある。音を立てないよう扉から離れ、そうっと覗き込むと、そこには誰もいなかった。 「助かった…」 ふーっと、細く長い息を吐きながら、目を閉じて、左側に顔を向けた。 まるでぬらりひょんを浮かべるような長い頭、本来目があるべき場所には、顔の横幅いっぱいの鮫のような牙の並ぶ口。その下に鼻が付いているであろう位置には奇怪な形をした耳が並び、口があると思った場所には、これまた横幅いっぱいのギョロりとした目玉。つけまつげを着けたみたいに長いまつげの奥で、少女を確かに捉えている。 少女は声も出ないレベルで震え上がった。 扉には首から上だけが入り込んでおり、通り抜けているのか、首から下は扉の向こう側にあった。
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