#13 卒業

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 (6) 「え!?」  戸惑う桜を置いていったん顔をガラスの向こうに戻し、内側に残した手の中の煙草を一服吸うと、早季はまた顔を出して続けた。 「前にね、秋彦から聞いたことがあるんだ」 「元川・さん、から?」  自分の口から秋彦のことを『元川さん』と呼ぶことに桜はやや抵抗を覚え、一瞬発音が詰まった。  だが、桜と秋彦の関係を知らないであろう早季にいちいち説明するのは省くことにした。  そんなことを桜が思ううちにも早季の話は続く。 「んーとね、以前にどっかのイベントの帰りに、頭おかしいのが襲ってきてぇ――とか?」  灰の伸びた先端を灰皿に落とすため、早季が一旦奥に引っ込む。指で弾いた煙草から灰がポトリと据え付けの灰皿の中へ落ち、早季がまた出入口へと戻ってくる。 「そンときに、桜ちゃんが、なんか刺されたとか、って聞いてるんだけど――」 「いえ――いやいやいや、それは――」  桜が遮るのも聴かず早季は語り続ける。  話が中断する様子もなく、早季が片手の煙草を消そうともしないでいたので、仕方なく桜は喫煙スペースのガラスの衝立の中に体を押し込んだ。 煙が充満している。目に沁みる。桜は煙草の煙が苦手だったが、サークルの先輩に応じるため我慢した。  水槽の中へ入った桜が話を聴く準備ができたと見た早季がまた話し続ける。 「なんか、ナイフで切られたとか? なんとか」  煙が目に沁みるのを我慢しながら、桜が答える。 「ちがいますよぉ、あたしは……大丈夫だったんですけど……元川――先輩のほうが……」 「え!? ナニなに、じゃあ刺されたのは秋彦だったのォ?」 「あたしは無傷でしたから」  それを聞いて早季は両手を広げ呆れたような表情を作った。 「えーっ、あたし騙されたのかなァ。だって桜ちゃんがナイフで刺されて、救急車で運ばれてタイヘンだったって」 「あー、それも……」 「なに、ぜんぜん違うの?」 「ハイ」 「え? ええ!? じゃさじゃさ秋彦どうなっちゃったの?? 大怪我? 死んじった??」 ――いや、べつに今も元気なんだから、死んじゃいませんよ~~……  桜は脳内でそう突っ込んだが、声は出さずにぐっと我慢した。 「ちょっと切られたのは確かだけど、先輩の怪我はたいしたことなかった、です……それに、ナイフじゃなくて、カッターだったので」  実際に標的になったのは桜自身で、秋彦はそれを庇ったために負傷したことは伏せた。 「なンだぁ。あいつ、ぜんぜん違うコトあたしに言ってんじゃない」  秋彦を『あいつ』呼ばわりする早季の馴れ馴れしい口調に桜の心は少しざわついた。 「秋ひ――元川先輩は、腕を切られて……」  『秋彦』と口に出しかけたのを飲み込み、改めて言い直すと、話を続けながら桜は秋彦の怪我をした箇所を自分の左の二の腕で指し示した。 「へえー」  そう返事をすると、早季は記憶を辿るように視線を仰がせると、思い出したように 「……あー、そういえば、あいつの左肩に、なんか傷痕があったっけ……」  と独り言のように呟いた。  早季の何気ない言葉に桜はぎくりとした。  あの疵は、目立つほどの大きさではなく、肩にかなり近い場所にあって、夏でもシャツの袖に隠れて見えない。 ――それを、このひとは知ってる――  桜の胸がキュンと痛んだ。  その後も早季は続けて桜に何かを話し続けたが、桜の耳に入ってはこなかった。  早季が短くなった煙草を灰皿に捨て、続けて2本目に火を点ける。  うっすらと紫煙で曇った金魚鉢のような空間に、早季の吐く煙が混じり合う。その煙が漂い、桜の顔を撫でていく。  早季の手の煙草の煙は、この水槽の他の人が吸っているものとは違い、ややツンとした独特の薫りがあった。  この鼻腔の刺激が桜の記憶の何かに触れたが、そのときは何か思い出せなかった。
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