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早季が対話で焚き付けたお蔭で、桜はあの事件のことを記憶から甦らせた。
もう、1年以上も昔のことなのに。
結局、あのときの少女はまだ捕まってはいない。
彼女が誰だったのかも、わからず終いのままだった。
――どうして自分を襲ってきたんだろう――
桜の中で、幾度も巡らせた答えの無い疑問が沈めた闇から浮かび上がり渦を巻く。
それを思い出すと、録画されたヴィデオが再生されるように、あのときの自分に向かってきたカッターの光が脳裏から蘇る。
恐怖がフラッシュバックし、桜の頭の芯から心臓へ電流が疾る。
そのたびに呼吸が詰まり、胸に楔を刺されたような苦痛を感じる。
忘れたい。
トラウマを記憶から消そう消そうと努めていた。
あの事件は、部内でも3回生以上の部員でなければ、知らないことだった。
桜を気遣う上級生たちは口を噤んでいた。
なのに。
どうして。
秋彦はあのことを早季に話してしまったのだろう……
怒りや戸惑い・疑心暗鬼が入り混じった感情で、桜は己の躰の芯が小刻みに震えるのを覚えた。
* * *
“話がしたいんだけど いい?”
どうしても質したくなって、桜はゼミに出ている秋彦を待ってLINEで呼び出した。
“少し遅くなるかもしれないけど、いいよ”
かなり間を置いて秋彦からの返信が付いた。
陽が西に傾く頃、ゼミを終えた秋彦が呼び出された大学近くのファストフードに現れた。
店の入口に秋彦の姿を確認すると、桜は目を逸らし秋彦が来るのを待った。
秋彦は片手を軽く挙げながら「なに? 話って」と桜に声をかけた。
秋彦が席に着くなり、桜は矢庭に切り出した。
「きぃちゃんに、話したの?」
“きぃちゃん”とは部内での早季の愛称だ。
「きぃに? 何を?」
一瞬、秋彦の目が踊り、何かを誤魔化すような貌をみせた。
だが、そのことよりも秋彦が早季の呼称を『ちゃん』付けでなく“きぃ”と呼び捨てにすることに桜はささくれた。
ひと呼吸し、心を落ち着け桜が言葉を続ける。
「カッターで、襲われた――こと」
「――ああ、あのことか。話したけど」
桜が、キッ、っと秋彦を睨みつける。
「こないだいきなり訊かれたの。――切られたの、あたしだって思ってたよ」
「切りつけられたの、桜だと思ってるって?」
ハハハと呆れたように笑いながら、
「あいつ、ぜんぜん俺の話を把握してないんだよなぁ。いっつもそうだよ」
秋彦の軽い受け応えに桜の苛立ちが増す。
「どうして話しちゃったのよ!?」
思わぬ激昂した桜の態度に、秋彦がややむくれて返答する。
「どうって――別にいいじゃん、たいしたことじゃないんだし」
秋彦にとっては『たいしたことではない』らしい。
それが尚更桜にはショックだった。
――あの娘が襲ってきたのは、明らかにあたしだった――
そのことを、このひとは気にしてないんだ……
「――もういいっ」
そう言うと桜は席を立ち、トレイに載ったバーガーの包装の屑やドリンクの紙コップをダストボックスに投げ捨てると、秋彦の制止も聞かず立ち去った。
去り際に秋彦の横を通り過ぎるとき、秋彦のシャツに残る移り香がふわりと匂うのが桜の嗅覚に届いた。
桜の中の秋彦の記憶にはこれまでになかった匂い。
――なんだっけ、この匂い……
記憶を辿ろうと、桜の歩みが束の間だけ鈍る。
けれど解答は見つけられず、桜はモヤモヤとした疑問を抱えたまま店を出ていった。
* * *
夏が近づくにつれ、桜が秋彦にLINEで連絡をとっても“就活でヒマがなくて”だの“卒論のせいで時間がない”だのと言い訳ばかりが続き、会う時間を作ってくれなかった。
前期試験が終了し夏休みに入ると、サークル各班の撮影は本格化していった。
一昨年の出演の経歴から、桜は主要な役を任されることとなった。
今年は天気に恵まれ、他の班も撮影は順調に進んだ。
ロケの合間も、桜は秋彦のことを気にかけていた。
自分も撮影で忙しいが、もうひと月以上も秋彦とは逢っていない。
撮影にも立ち寄ってくれていない。
にも拘らず、部内の噂では、秋彦は早季のいる組へはよく顔を出しているらしい。
――あたしの組には、ぜんぜん顔も出してくれないのに――
桜の心に、次第に靄が覆い始めていた。
8月に入った日、桜の組が撮休だったので、手の空いているメンバーは他の組へ応援に散開した。
撮影が無ければキャストは暇になる。桜は早季の班のロケ現場への応援担当になった。
「ひっさしぶりぃー。桜ちゃんの組はどう? 撮影順調?」
現場に到着すると、早季が屈託ない笑顔で桜を歓迎してくれた。
班が違うので早季と顔を合わせるのも久しぶりだ。
「ええ、まぁ――」
「ウチのほうはトラブル続きでねぇー。じわじわ遅れてて困っちゃう。香盤表直すのもうタイヘンよぉ」
出演と同時に進行担当を兼ねる早季が桜に愚痴を零す。
「ハハハ」と桜が相槌の笑いを返す。
他の部員から「じゃ、桜ちゃん、きょうはこのカポックお願いネ」と大きな厚手のスチロール製の白い板を手渡された。いわゆるレフ板だ。
桜も「はーい」と気さくに請け負う。
渡された物が嵩を取るので、桜は人通りの妨げにならないように脇へ避けた。
移動する先にたまたま近くにいた早季が台本とポーチを抱えているのを見て、
「きぃちゃん、次出番なの?」
と桜が言葉をかけると、
「うん。だからセッティング待ちー」
とややダルな返事が返ってきた。
カメラや照明の配置が整う合間、早季は準備の邪魔にならないように隅に寄ると、ポーチから携帯灰皿を取り出し煙草に火を点けた。
ぷぅと吐く外国産の紫煙が風に流れ、カポックを抱えた桜の体にまとわりついた。
ちょっとクセのある独特の薫り。
この匂いを嗅いで、桜は、あっ、と気付いた。
秋彦のシャツに微かについていた移り香。
秋彦のベッドで感じた違和感。
それは、仄かな煙草の匂いだった。
この、
ちょっとクセのある――
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