#14 ノスタルジア

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 (4)  冬休みに入って間もない朝。外出の身なりをした桜は絵笑子と廊下で鉢合わせすると、 「ちょっと出かけてくるね」  と軽い挨拶をして玄関へと向かった。  絵笑子が桜の背中に声をかける。 「あら? 桜ちゃん、だってきょうは――」 「わかってる」  そう言うと桜は靴を履き、ドアノブに手をかけながら 「夕方までには帰るから」  と返事を残し玄関扉を閉めていった。  白い息を吐きながら、桜は市電の停車場へ急いだ。  固くなった雪の表面が足を(すく)う。  キン、と凍った朝の空気が桜の肺を射抜く。  手袋を忘れたことに気付いたが、急いた気持ちはいま来た道を戻ることを拒み、桜は(かじか)む両手の甲を()わる()わる揉み擦りながら市電の到着を待つと、ほどなく到着した車両に飛び乗った。  スマホの乗換アプリで時刻を確認する。  大丈夫。目的駅に着いてから、まだ30分以上余裕がある。  ガタンガタンというリズミカルなレールの振動に心を同調させながら、桜の中でさまざまな想いが交錯しては流れていった。  街に溢れるジングルベルを耳にすると、桜は哀しみに(さいな)まれる。  また、この日が巡ってくるのかと、胸が締め付けられて、その場を動けなくなる。  三年前の気持ちが生々しく蘇ってくる。  事故さえなかったら、母とあの地で暮らしていっていたのに。  母がいて、幸生がいて、つつましやかな幸せに包まれ暮らしていただろう。  けれど、幾度胸掻き(むし)られるほど悔やんでも、もう詮無いことだ。  失くした時間は戻らない。  この三年で、桜は諦念を学んだ。  昨年、相手側との示談が成立した。  加害者への憎しみはあるが、ずっとそれを抱えて生き続けるほうが、たぶん苦しい。  どこかで区切りをつけなければ、前へは進めない。  桜はそんな結論を下した。  車内のアナウンスが次の停車駅の伝え、目的地の名を読み上げている。  市電が停車すると、数人の降車客に()いて桜はホームに降りた。  暖房のよく利いた車内から出ると、ぴゅうと北風が桜の頬を凍て付かせた。  繁華街を通って名画座へ向かう。まだ開店前の軒が並ぶアーケードにも華やぐクリスマスの装飾が彩られ、朝からクリスマスソングがスピーカーから流れている。  あの日以来、クリスマスソングは嫌いになった。  けれど、もうそれを乗り越えなければならない。  それが桜の三年後の決意だった。     *   *   *  人もまだまばらな街を進みながら、桜は、時間にかなりゆとりを持って映画館へ着いていた幸生のことを思い出した。 ――幸生くんの場合、いつも45分は前に到着してたもんなあ……  それがせっかちな性格のせいなのか、心配性のためか、幸生なりのルーティンなのかは、結局訊き質すことがないままだった。  アーケードが途切れ、レンガ模様の道になる。片付けの残りの雪をさくさくと踏み締めながら足を留める。正面に市内にただ一つの名画座を桜は仰ぐように目に灼き付けた。  桜がこの劇場を独りで訪れるのは初めてだった。  以前は秋彦がよく連れてきてくれていたが、関係が終わってから足は遠のいていた。劇場公式サイトのスケジュールもチェックしなくなっていたので、閉館の話は父から初めて知らされたくらいだった。  建物壁面を飾るショーウィンドウには、いつもの上映中のポスターやプレスシートに並んで、「閉館のおしらせ」や「さよなら特集」といった告知の紙が並んでいる。  平日の朝だというのに、劇場の券売機には十数人の客が開館を待ち並んでいた。年配の男性。若いカップル。零下にまで下がった明け方の冷え込みの残る中、寒さに耐え一様にポケットに両手を突っ込み、足踏みをして待っている。 「すごいなぁ……」  寒風にも敗けず閉館を惜しむ人々の熱気を感じ、桜は感嘆した。  桜が最後尾に並ぶと、次第に列が伸び、10分後には開場が前倒しされ劇場の扉が開く頃には50人は超える人々が並んだ。  入口で劇場スタッフの年配の男性――おそらくは館主だろう――が、笑顔で「いらっしゃいませ」と客を出迎えチケットをもぎりする。馴染客と思われる年配の男性が「寂しいね」と声をかけていく。  桜も軽く会釈を返し開いた扉をくぐった。
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