#16 -終章- シェルブールの雨傘

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 シネコンを出たあと、桜は懐かしさを噛み締めていた。  幸生をあのロビーで見送ってから、桜の心は永く忘れていたときめきが溢れ立つのを感じた。    数年振りに幸生と言葉を交わした。  桜の中で、幸福の渦潮が幾重も湧き起こり、奥底に沈めていた感情を掻き上がらせた。  青年となって現れた幸生。  だが、自分の中では、今も高校1年のあどけなさの残る姿のままがだぶっていた。  あの、高校時代に映画館の客席で見つけた瞬間のまま、留まっていた気持ち。  桜の中で、永遠に朽ちることのない(あざ)やかな時。  ――エヴァー・グリーン。  そんな言葉が続けて心に浮かび結ばれる。  同時に、見送る現在の背中に寂しさも重ねていた。  ショッピング・モールを通り抜け、直結している駅の改札からホームへ出る。  風景はやや変わったが、道筋は桜の足が憶えていた。  ホームに辷り込んだ電車の開いたドアから、車両の胎内に潜り込む。  嬉しい心地は次第に(しず)かになり、代わって空洞の黒が拡がる。  改めて、幸生という存在が桜の中でどれほど大きな場を占めていたかを、背を向けた幸生の姿が実感させられた。  考えたら、互いに名刺も交わせずに別れてしまった。  それくらいやっとけばよかったと桜は後悔した。     *   *   *  宿にチェックインし、翌日の営業廻りのスケジュールを確認する。  今回の桜の出張は2日間の予定だった。 ――そういえば、幸生くんは日帰りって言ってたな……   きっともう、今頃は東京へ帰る道行きの途中かな……  桜はきょう偶然出逢った幸生の別れたあとのことをあれこれと空想した。 「さて、と――明日もあちこち廻るし、きょうはもう早めに(やす)まなくちゃ」  独り言を呟くと、桜はスーツを脱ぎ、ユニットバスのドアを開け浴槽に張った湯に浸かった。  パンプスから開放された足をマッサージしながら脛のむくれを(ほぐ)す。 「ふぅー」  気がつけば、桜ももう20代の大詰めだ。三十路も近い。  社会人になってから、これまでに言い寄る男性がいなかったわけではない。  けれど、大学での辛い恋愛が、心に足踏みをさせていた。 「けっきょく、あたしの恋は、どっちを向いてたのかな……」  頭の中でぐるぐると無意識の連想を巡らすうち、口端から勝手に愚痴が漏れる。  ユニットバスのアイボリーの天井に、10代の幸生の顔が浮かび、成長した幸生へとオーバーラップしていった。 「なんだよ……ひさびさに逢ったのに、つれないなァ……」  幸生との経験は、秋彦と比べると呆れるほどに少ない。  それでも、桜の中で(おも)い出すのは、幸生と過ごした時間のほうが鮮明だった。 ――いまも忘れ難いのは、幸生くんだ――  自分を現金に感じながら、桜はそんな自身の心の(うち)を拒むことはできなかった。  もし、できることなら、今宵この宿で過ごしたい。  もし、できるなら、朝までいっしょに居てほしい。  もし、できるなら……  気付けばかなりの長湯となり、湯船の温度もすっかり冷めてしまった。 「湯冷めしちゃうよぉ……」  シャワーで上がり湯を浴びながら、桜は 「あのドンカン幸生ォっ。乙女心くらい気付いてよネっ」  と恨み言を繰り続けていた。     *   *   *  備え付けの浴衣を纏い、ベッドに腰を下ろす。  髪の水気をくしゃくしゃとタオルで拭ってから、軽くターバンのように頭に巻いた。  ベッドの上で胡座をかき、宿に入る前にコンビニで購入していた缶チューハイに手を伸ばす。  ツマミはミックスナッツとさきイカ。  その袋をビジネスホテル然とした小型のテーブルの上に並べ、ちまちまと晩酌を嗜みながらツマミを拾いつつ、桜はようやく今日の終わりを感じた。  ナッツの脇に、部屋に入ってすぐに放り投げていたスマートフォンが桜の目に入った。  小さな明かりが点滅している。  LINEの着信だった。 「誰? こんな時間に――」  不思議に感じた桜がスマホを手に取り画面を点ける。  LINEのアプリを開く。  確認したとたん、桜が声を漏らした。 「……あ……」  最下層に()がっていたはずの懐かしいアイコンが、『新着あり』のマーキングが付いてトップに上がっていた。 「まだ、このアイコン使ってるんだ……」  驚きとともに、こんなところに無頓着な気質にフフフとちょっと呆れながら、桜はそのアイコンに触れた。  届いていたのは、幸生からのひさしぶりのDMだった。  数年ぶりのトーク画面を目で追いながら、桜の心はときめきを感じていた。 “もし時間が合えば、いっしょに行かない?  昔みたいに、同じ時間、隣同士の席で”  メッセージに続いて、URLが貼られている。  とくとくと高鳴る胸をなんとか鎮めつつ、桜の指がそのリンクを踏んでみると、  シネコンの企画特集のページが開いた。  輝くほどのブロンドの髪。レインコートを纏う憂いを帯びた表情。  桜も知っているフランスの女優。カトリーヌ・ドヌーヴの姿が大写しにされる。  父のCDで聴いたあの哀切を帯びた旋律が桜の中で奏でられる。  桜の記憶がリフレインされる。 『この映画を、いつかいっしょに観よう――』  幸生と交わした約束。  あのときの彼の姿や声さえも、映画のように心のスクリーンに鮮やかに蘇る。  かつて幸生と愉しんだ、ふたりだけの“デート”のルール――  心がとくとくとときめく。  ――桜の指が、返信をフリックしはじめた。        -Fin-             [2019年12月16日・了]
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