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つかまる
音が、消える。
体育館から聞こえてくる生徒の声。吹奏楽部の練習の音。今まで聞こえていたものが、一瞬にして聞こえなくなった。
そう、まるでこの世界にただ一人取り残されてしまったかのように。
「え? いま……なんて…」
『別れよう』
「なに……急に…俺なにか…」
『……結婚するんだ』
結婚という言葉に、それ以上何も言えなくなる。
ただ沈黙だけが流れて、通話が切れた。規則的な機械音が聞こえなくなっても、野村朔(のむらはじめ)はスマートフォンを耳に当てたまま立ち尽くしていた。
どれくらいの間、そうしていたのかわからない。
いつまでも通話の切れたスマホを耳にあてているのも馬鹿馬鹿しくなって、野村はだらりと腕を垂らした。
電話の相手は、つい昨日会ったばかりの野村の恋人だった。但し、同性の。
―――結婚って…、なんで昨日言ってくれなかったんだよ…。
しかも、電話で言ってくるあたりが憎らしい。こちらが勤務時間であることも、もちろん把握した上での事なのだろう。そう思うと、急激に心が冷えた。
五年の付き合いがたった一本の電話で終わるなんて、思ってもいなかった。だからといって、未練がましく縋り付くつもりはないけれど。
ただ、捨てられた。と、そう思う。
「野村?」
訝し気な声が聞こえてきて振り向くと、そこには一人の男子生徒が立っていた。
教師を呼び捨てにするなとか、いつもなら口煩く説教するところだが、今はそんな気分にすらなれなかった。
後藤慎一(ごとうしんいち)。二年生でバスケ部の部長を務める彼は、ゆっくりと歩み寄ってくるとひたと顔を見下ろしてくる。
高校生ながら百九十近い長身の後藤に至近距離で見下ろされると、さすがに威圧感を感じた。
無意識に小さく下がろうとすると、ふいに伸ばされた後藤の手で頬を捉えられた。武骨な割に優しい指先で頬を拭われて、濡れた感触に息が詰まる。
「なんで泣いてんの」
たいして興味もなさそうに聞いてくる後藤の声は、だが優しくて。野村は思わず胸に飛び込んでしまいたくなる衝動を必死に堪えた。
―――教師が生徒に泣きつくなんて、なに馬鹿な事考えてんだよ…。
ぐいっとスマホを握ったまま手の甲で頬を擦ると、野村は後藤を見上げた。
「何でもない。忘れてくれ」
そう言って踵を返した野村の腕を、後藤が捉える。
「放せ……っ」
捉えられた腕を反射的に振り払って、野村は逃げるように走り出した。だが、何故か後藤が追いかけてきて混乱する。
逃げたところで普段から走り慣れている後藤と、運動などめっきりしなくなった自分では勝ち目はない。が、そのまま捕まる訳にはいかなかった。そもそも何故追いかけてくるのか…。
体育館の裏を抜け、グラウンド横の部室棟の裏へと逃げ込んだところで再び腕を捉えられた。
野村はよろよろとその場に座り込んだ。慣れない全力疾走で乱れた呼吸に、声が出ない。
「なんで逃げんの」
「ぉ…前こそ…っ、なんで、追いかけて……、はっ…くんだよ…っ」
「泣いてたから」
結構な距離を走ったと思うのに、まったく息を乱した様子もない声が降ってくる。
「なんかあったの」
「どうして、そんなこと…、お前に言わなきゃならないんだ」
「……確かに」
捕まれた腕が、不意に放される。急に自由になった事でバランスを崩した野村は、その場に尻餅をついた。
無様な自分の姿を、きっと後藤は冷めた目で見下ろしていることだろう。そう思ってみても、確認する勇気も、立ち上がる気力もなかった。
「頼むから…、放っておいてくれ…」
小さく呟くと、ふと後藤が動く気配があって、野村はほっと息を吐き出した。だが…。
「こんな顔してる奴、放っておける訳なくね?」
カシャッと機械音の後で、スマホの画面を見せられる。
そこには酷い顔をした自分が写っていて…。
「は…っ、何か俺、お前に恨まれるような事したか?」
「なんで?」
「そんな写真撮って、何に使う気だよ」
半ば投げやりに野村は吐き捨てた。教師の無様な写真など、生徒たちの格好のネタだろう。
「あぁ、そういうこと」
くすりと後藤は笑って、野村の前に座り込んだ。
「別に、そういうつもりで撮ったわけじゃないから」
そう言って、野村の目の前で撮ったばかりの写真を削除して見せた。
「鏡がなかったから代わりにしただけ。これで満足?」
スマホを目の前で振りながら問いかけられても、何と答えていいのかわからない。誤解して悪かったと、謝るべきだろうか。
目の前に座り込んで動く気配のない後藤に、野村はただ黙っていた。
泣いてるところを生徒に見られただけでも気まずいというのに、逃げたあげくに捕まるなんて、教師として最悪ではないか。
―――違う。一瞬触れられただけの優しさに思わず流されそうになる自分が一番最悪だ。
「参ったな……」
困ったように呟き、ガシガシと頭を掻いた後藤がすくっと立ち上がる。
そのままいなくなってくれという願いも虚しく、野村の目の前に武骨な手が差し出された。
「取り敢えず立てよ」
少しの間、その手を見つめていたものの、引っ込む気配はない。野村は諦めたようにおずおずとその手を握った。
ぐいっと力強く引っ張られて、勢い余って後藤の胸に倒れ込んでしまう。
「あぁ、悪ぃ。痛かった?」
「……いや」
「しかしアンタ、細すぎねぇ? 飯食ってんの?」
「……教師に向かってアンタとか言うな…」
今更教師面など滑稽だと自分でも思うが、そうしないと後藤の優しさに流されてしまいそうになる。
「それと、俺が細いんじゃなくてお前がでかすぎるんだよ」
ボソボソと反論する野村に、後藤は、間違いない、と笑った。
「悪かったな、変なとこ見せて。もう大丈夫だからそろそろ戻れよ、部活中だろ?」
服に着いた埃を払い落としながら野村がそう言うと、後藤は何か言いたそうな顔をしながら、だが何も言わずに体育館へと戻っていった。
後藤の姿が見えなくなったのを確認して、野村は再びその場に座り込んだ。
「なん…なんだよアイツ…」
小さく呟いて顔を覆う。その頬が朱に染まっているのを、野村は自覚していた。
きっと恋人に振られたばかりで寂しかっただけ。恋心などではないと、自分に言い聞かせる。
―――生徒を好きになるなんて…、御免だ…。
それもこれも勤務時間にあんな別れ話をしてきた元恋人が悪い。そう野村は思う事にした。
スマホを操作して元恋人の番号を表示させると、躊躇いなく削除する。
野村は立ち上がり、よれたスーツを直して暮れはじめた空を見上げると、大きな深呼吸をして歩き出した。
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