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「小夜子さんはいらっしゃいますか」
その男が訪れたのは雨降る十月のとある日曜日だった。
霧雨に作られた色薄い空間に、暖簾を分けるように右手を目上に被せ立っていた。年は二十代前半に見える若い男で、どこか野暮ったい短髪に小さな雨粒をいくつも引っつけている。黒のロングコートは前できっちり閉められており、灰色のスラックスがそこから伸びていた。黒い革靴を履いている。
若いのにどこか暗く地味な格好、しかし表情だけは優しい。アンバランスな印象を与える男だ──と、玄関前でその男に声をかけられた彩芽は思った。
「はぁ。祖母に御用ですか」
小夜子は彩芽の祖母の名前であった。年齢は八十五歳。二十七歳となる孫の彩芽から見ても十分に若々しい祖母であったが、三年前に脳梗塞で倒れたことをきっかけに寝たきりになってしまった。今も同居しているこの家でベッドで横になる時間が多くなっている。
そんな祖母の名前を出した男に対して彩芽は警戒の意を強くする。こんな若い──孫の自分とそう変わらない年齢の男が、なぜ祖母を訪問してくるのかわからなかったからであった。
その視線の意味をすぐに男は理解したのだろう。警戒を解くかのように霧雨の向こうでにっこり笑った。
「僕は忍田宗治と申します」
「沖田総司?」
「いえ、おしたそうじ、です」
幕末の志士と間違えられることに慣れているのか男は笑顔を崩さない。忍田と名乗った男は言葉を続けた。
「僕、小夜子さんの絵画仲間なのです」
その言葉に彩芽はすぐにピンときた。
「あ、もしかして日向町の?」
忍田はこっくりと頷く。それに安心をして彩芽は「ああ、雨なのにすみません」とすぐに中に招き入れた。
祖母の小夜子は絵を描くことが趣味で、病気で寝たきりになるまでは毎週近所の絵画教室に通っていた。その仲間、つまりは絵画教室の生徒さんがお見舞いに来られたのだと理解して玄関を通したのであった。
たまたま夕刊を取りに向かった玄関先。霧雨の降るなか佇んでいた青年は小夜子の後について足を踏み入れた。
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