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 あ、と思った時には遅かった。振り返ればそこには廊下に流れるお茶がある。湯呑みごと倒されたそれは板張りの廊下に嫌な水たまりを作っていた。  自らの存在を知らせてしまったと焦った彩芽は、お茶に視線を奪われつつも言葉を発する。 「す、すみません。お茶をこぼしてしまいまして」  そう言いつつまた正面の襖向こうを見た。  しかしそこにはもうあの雨降る桔梗の庭はなく、いつも通りの祖母の和室があるだけだった。  畳の上に介護用ベッドをギャッジアップされ横になる祖母。周りの古めかしい家具や小物に囲まれていつものように安心したように瞳を閉じている。  彩芽は恐る恐る襖を開けた。 「あの……?」  中に入る。忍田はどこにもいなかった。最初からいなかったかのように、その和室にはただ祖母がベッドに横になっているだけだった。 「おばあちゃん……?」  彩芽はゆっくりと祖母に近づいて様子を見る。さっきまであんなに忍田と嬉しそうに喋っていたのにこんなに早くに寝るなんて。胸元まで布団をかぶせた祖母はその上で両手を組み、静かに目を閉じていた。その手に何か見慣れない──けれど先ほど見たばかりのものが握られている。  簪だ。桔梗の一本簪が、紫色のハンカチの上に置かれたその手に握られていたのだ。 「どういう……こと……」  白昼夢でも見ていたのか。でもこの簪は一体どこから。  ぐるぐると混乱する彩芽はそこでようやく気づく。祖母はもう、息をしてはいなかった。
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