§4

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 よく知ってるね、という言葉を呑み込む。  万葉のことをよく知っている直輝を、今の万葉は知らない。  その感覚は、万葉を立ち止まらせる。相手に自分がどう思われているのか見当もつかない状況では、どんな風に振る舞っていいのかわからない。ここは固辞するべきなのか、丁寧に礼を言うのがいいのか、それともそんな堅苦しい態度を取ったらかえって悪いのか。  それは直輝も同じだろうか、と想像する。今の万葉にとって直輝が見知らぬ人であるのと同じように、直輝のことを覚えていない万葉は彼にとっても初対面に近い存在のはずだ。  たとえ以前の自分と直輝とがどれほど親しい友達だったとしても、万葉が記憶を失くしたことによって、その関係はゼロにリセットされてしまったのだ。  何かとても大切なものを失ったような感覚に、身体がぶるっと震える。指先がすうっと冷えていく。  だが、万葉の目の前で椅子を引いて腰を下ろす直輝の様子には、少しもぎこちないところはなかった。万葉もカップをもう一度手に持って、今まで直輝が座っていた側に回り、腰を下ろす。     
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