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退院直後のまだ体力が戻っていなかった頃、電車で優先席に座ったら、目の前で年配の男性に厭味ったらしい舌打ちをされたことがある。仕方なく席を譲ったが、眩暈を起こして立っているのがつらくなり、途中下車して駅のベンチで休む羽目になった。
健康そうに見える直輝も、何か持病などを抱えているのかもしれない。
しかし、直輝は万葉の心配を払い落とすように首を横に振った。
「もうどこも悪くない」
もう、ということは、前は悪かったのか。でも、果たしてそういうことを立ち入って訊いてもいいものか。以前の万葉は、直輝が病院へ行く理由を、問うまでもなく承知していたのだろうか。
またしても、失った記憶が壁となる。
事故に遭う前の自分を羨ましく思う。どこまで知っているべきなのかなんて悩むことなく、自然と直輝と接することができていたであろう自分を。
その過去の自分との差を少しでも縮めたくて、万葉は訊いてみた。
「あのさ。俺が覚えていなかった一回って、いつのこと?」
「……は?」
ああ、また日本語が崩壊している。
万葉は慎重に言葉を選び直した。
「最初に話しかけたときに訂正されただろ。すれ違えなかったのは三度目だ、って」
直輝が立ち止まって振り返った。形のいい切れ長の目がわずかに見開かれる。
「記憶、戻ったのか」
「いや。まだほんの少しだけ」
あれがただの夢想ではなかったことがわかって、万葉はほっとする。
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