§5

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 自分が事故に遭ったときのことを、万葉はまったく覚えていない。それでも無意識に刻み付けられた恐怖心なのか、交差点に差し掛かるたびに一旦立ち止まってしまう。走り出すと何か嫌なことを思い出してしまいそうな気がして、足がすくむ。 「あ」  後ろから走ってきた男子学生が、棒立ちの万葉の背中にぶつかった。 「どけよ!」  押し退けられて、華奢な身体がぐらりと揺れる。一歩、二歩と、大きく傾いだ身体を踏みとどまらせようとするが、歩道の幅が足りない。大学の敷地を囲むレンガ塀に肩を打ち付けそうになって、反射的に身構えた瞬間だった。  肩と塀の隙間に、直輝の身体がすっと滑り込んできて、よろけた身体を支えてくれた。  万葉を突き飛ばした男子学生は、赤に変わったばかりの横断歩道を走って渡っていく。腹立たしげなクラクションの音に、万葉はびくっと首をすくめた。 「あぶねーな」  直輝が男の後姿を睨みつけて舌打ちをする。万葉は慌てて、直輝にもたれていた身体を離した。 「ごめん」  思わず謝ると、直輝がわずかに眉を寄せた。 「違う」 「何が」 「万葉に舌打ちしたんじゃない」 「あ……うん。わかってる」 「なら、謝る必要ない」  直輝はそう言うと、ジーンズのバックポケットに両手を突っ込んだ。その姿勢のまま、万葉を庇うかのようにすぐ隣に立って一緒に信号待ちをしてくれる。病院に向かうには、この横断歩道で立ち止まらずに角を曲がってしまえばいいはずなのに。     
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