§10

3/6
442人が本棚に入れています
本棚に追加
/76ページ
 直輝はジーンズのポケットから取り出した鍵で部屋の扉を解錠する。だが、そのまま扉は開こうとせず、そこにじっと立ち尽くしたままだ。 「そのときの俺には、万葉、っていう名前の読み方すらわからなかったんだ」  万葉の胸に、きん、とガラスが欠けるような痛みが走った。 (綺麗な名前だから、声に出して言ってみたくなった) 「万葉」  玄関の扉の前で、直輝が振り向く。 「ごめん」  万葉はようやく、その「ごめん」に対して首を横に振ることができた。 「謝るなよ。直輝のせいじゃない」  自分がもしそのときの直輝だったら、と、今の万葉には容易に想像ができる。  名前の読み方すら知らない。顔も思い出せない。自分とどんな関係だったかもわからない。そんな相手に、いきなりメールなどで自分の置かれた状況を説明できるとは思えない。しかも、最後に連絡があったのは何カ月も前のことだ。今さらそれに返事をしたところで、互いに混乱するだけだと考えるのが普通だ。  カウンセラーだってそのように助言したかもしれない。 「ああ、そうか」  あのカウンセラーが言っていた、友人のことが思い出せなかった大学生の症例というのは、直輝のことだったのか。 「直輝は……いつ、どうやって、俺のことを思い出したんだ?」     
/76ページ

最初のコメントを投稿しよう!