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直輝はジーンズのポケットから取り出した鍵で部屋の扉を解錠する。だが、そのまま扉は開こうとせず、そこにじっと立ち尽くしたままだ。
「そのときの俺には、万葉、っていう名前の読み方すらわからなかったんだ」
万葉の胸に、きん、とガラスが欠けるような痛みが走った。
(綺麗な名前だから、声に出して言ってみたくなった)
「万葉」
玄関の扉の前で、直輝が振り向く。
「ごめん」
万葉はようやく、その「ごめん」に対して首を横に振ることができた。
「謝るなよ。直輝のせいじゃない」
自分がもしそのときの直輝だったら、と、今の万葉には容易に想像ができる。
名前の読み方すら知らない。顔も思い出せない。自分とどんな関係だったかもわからない。そんな相手に、いきなりメールなどで自分の置かれた状況を説明できるとは思えない。しかも、最後に連絡があったのは何カ月も前のことだ。今さらそれに返事をしたところで、互いに混乱するだけだと考えるのが普通だ。
カウンセラーだってそのように助言したかもしれない。
「ああ、そうか」
あのカウンセラーが言っていた、友人のことが思い出せなかった大学生の症例というのは、直輝のことだったのか。
「直輝は……いつ、どうやって、俺のことを思い出したんだ?」
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