本文

1/79
127人が本棚に入れています
本棚に追加
/79ページ

本文

 それは、ふっと薫る真冬の水仙のように。もしくは少しだけ舌先に残るシナモンのように。  最後の音の余韻を部屋に満たした後、住良木嘉(すめらぎよし)は椅子から立ち上がった。薄暗い店内で客達は会話とお酒を楽しんでおり、BGMを奏でていたピアニストの事など気に留めたりしないけれど、嘉はにっこりと微笑んで軽くお辞儀をしてから、客の間を縫って奥のカウンターに向かった。 「スコッチのトワイスアップ頂戴」  するりと革張りのスツールに腰かけ、嘉はマスターに声を掛ける。 「まだ今日の演奏、終わってないだろ」  強面のマスターは、顔を顰めつつも背面の棚に整然と並んだグラスに手を伸ばす。 「これが飲まずにいられますか、って状況なわけ」  嘉は頬杖をついて、うんざりしつつ一昨日の出来事を思い返す。 「うちのマンションさー隣人がボヤ騒ぎ起こして、俺の部屋もちょっと燃えちゃったんだよね。しかもスプリンクラー発動して、部屋のなか、びっちょびちょ」  一昨日もこのアイリッシュ・バー『山葡萄』の出勤日だった。嘉が住んでいるのは小さな単身者向けのマンションだが、仕事を終えて夜更けに家に帰ると、住人達が駐車場に集まって途方に暮れていた。     
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!