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それは、ふっと薫る真冬の水仙のように。もしくは少しだけ舌先に残るシナモンのように。
最後の音の余韻を部屋に満たした後、住良木嘉は椅子から立ち上がった。薄暗い店内で客達は会話とお酒を楽しんでおり、BGMを奏でていたピアニストの事など気に留めたりしないけれど、嘉はにっこりと微笑んで軽くお辞儀をしてから、客の間を縫って奥のカウンターに向かった。
「スコッチのトワイスアップ頂戴」
するりと革張りのスツールに腰かけ、嘉はマスターに声を掛ける。
「まだ今日の演奏、終わってないだろ」
強面のマスターは、顔を顰めつつも背面の棚に整然と並んだグラスに手を伸ばす。
「これが飲まずにいられますか、って状況なわけ」
嘉は頬杖をついて、うんざりしつつ一昨日の出来事を思い返す。
「うちのマンションさー隣人がボヤ騒ぎ起こして、俺の部屋もちょっと燃えちゃったんだよね。しかもスプリンクラー発動して、部屋のなか、びっちょびちょ」
一昨日もこのアイリッシュ・バー『山葡萄』の出勤日だった。嘉が住んでいるのは小さな単身者向けのマンションだが、仕事を終えて夜更けに家に帰ると、住人達が駐車場に集まって途方に暮れていた。
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