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今朝から屋敷が騒がしいのは、きっと旦那様が身体のお悪い兄上様の為に高野山にある温泉に行かれるからです。旅の仕度もさることながら、少しばかり主の抜ける館も抜かりのないように態勢を整えなければなりません。
あの夕焼けの日から、旦那様は私の顔を見ようとはしませんでしたし、呼びつけることもなさいませんでした。それがとても寂しく、そんな旦那様が旅に出られることが輪を掛けて気分を落ち込ませました。
土間に続く式台の上でわらじを履かれるお姿を見送りながら、一度でいい私の名前を呼んで欲しいと思いました。でも、叶いませんでした。
旦那様がお立ちになり、お天道様が一番高くなると竹一様が遊びに来れました。昨日書いたと言われる双六を持っておられます。
竹一様と私はいつものように庭の縁側に向かいます。竹一様の小さな手がさいの目を転がします。
「竹一様は温泉には行かれないのですか?」
「お祖母様が行かれるからね。母上と私は留守を頼まれたんだ」
「そうなんですね」
「いいんだ。私は、旅は苦手だ」
竹一様は慣れているから平気だというように笑われます。少し大人びた幼子に、胸が痛みます。
「それでは、母上様の傍には竹一様がいて差し上げないといけませんね」
「そうだね。でも今は、小間物屋さんが来られているから、母上や女中は忙しいんだ。だから、大丈夫だよ」
宗助さんが脳裏に浮かび、暗い気持ちになりました。
「そうなんですね」
「うん。…次はお小枝の番だ」
「あ、はい」
私はさいの目を縁側の床の上にころんっと投げました。
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