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(なごみ語り)
大野君と駅前の居酒屋に入った。
何の変哲もない普通の飲み屋だ。
座敷に向かい合わせで座ろうとした途端、腕を引っ張られた。身長差が10センチ以上あるため、彼にやられると抵抗できない。
「さっきから気になってたんですけど、プール行ってきました?」
すんすんと髪の匂いを嗅いでいる。
突然のことにされるがままだ。大野君ってこんな人だったかと、驚いた。
僕、塩素臭いかな。シャワー浴びてきたのに。顔が赤くなるのが分かった。なんだか自分ばかりが意識しているみたいで恥ずかしい。実際、僕は彼を誰よりも意識していた。
「え、あ、ま、うん。肩こりが酷くて、水泳を始めたんだ。結構ストレス解消にもなるから。」
「肩こり……って待鳥先生がいるじゃないですか。」
久しぶりに『待鳥先生』という単語を耳にした。懐かしい響きだ。
「随分前……大野君が向こうに行く前に別れたよ。今は会ってもいない。きっとお兄さんの方がよく知ってるんじゃないかな。患者さんだよね。」
「ええっ、そんなに前ですか。すみません。俺、なんか悪いことを平気で口にしてますよね。」
「全然平気。もう過去のことだし。それより大野君はどうなの?向こうでの話を聞かせてよ。」
注文したビールが来たので、乾杯をして、うずうずしている大野くんの話に耳を傾けた。
目をキラキラさせて、関西でのことを話し始めた。地理も分からず、周りに知り合いが全くいない状態で始めたため、営業が大変だったこと。言葉に苦労したこと。普通に話していても、関西イントネーションで言われると語句が強く感じて、心が折れそうになることが何度もあったらしい。
彼の話は聞いていて飽きることはなかった。
頷きながら、僕は大野君を心に焼き付けておこうと、成長した彼の姿を何度も見た。
久しぶりに会っても、幻滅することなど何もない。
2人の間には時間の隔りすら無いように感じた。僕にとって、とても心地のいい空間だった。
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