渉の恋

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(渉語り) そろそろ来るかな、とは思っていたが、まさかこのタイミングとは笑える。 汗だくで、息を切らせながら立っているその姿は色気があり、以前より遥かにいい男になっていた。大野は洋ちゃんを心から愛していて、諒君から守ろうと必死になっている。たぶん、僕と付き合っている頃より洋ちゃんは幸せだ。こんな真っ直ぐな想いを受けてみたい。悔しいけど、心底羨ましい。 その大野に触発されたのだと思う。 むくむくと自分の中で誰かを愛したくて堪らない衝動に駆られた。 愛に生きる彼は申し分なく格好良かった。 僕は無性にまどか君に会いたくなる。もう、相手に軽蔑されたって、恥ずかしくたっていい。思い切って気持ちをぶつけてみよう。そう決意した。 夕方、予約もせずに来た榊さんを追い返し、戸締りはアスカちゃんにお願いして、バスに飛び乗った。 遅番だといいな。だったら会える確率が高くなる。早番だったら………悪いことは考えるのを止めよう。とにかく、早くまどか君に会いたい。会って謝らないと。 そして伝えたいことがあるんだ。 夕焼けの中に保育園はあった。まだ建物には明かりが灯っている。 ひぐらしの鳴き声が辺りに響いていた。むわっとした空気は、先日の夏祭りを思い出す。 汗がシャツの襟を伝い、襟足を濡らしている。最後の園児さんが帰ったのだろう。門の鍵を閉める大人の影があった。 「…………すみません。ここで働いている武藤先生はまだお見えでしょうか」 恥を忍んで、その方に声を掛けた。 少し間があったのち、その人が顔を上げる。 柔らかそうな短髪に優しい目元がこちらを見て、僕は息が止まりそうになった。 「武藤は私ですが……あっ、……渉……さん……」 「まどか君………だ」 なんと、鍵を閉めていたのはまどか君本人だった。 すぐに会えるとは思ってもいなかったので、頭が一気にショートする。 例えるなら、まだ下りるつもりのないバンジージャンプで足を滑らせてしまい、一気に急降下してしまった感じだ。 今更戻ることはできない。
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