大切をきずくもの

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(大野語り) 何事も無く引越しが終わった。出前の寿司で小さな宴会をした後、ほろ酔いで新居を後にした。 駅まで15分の道のりを、なごみさんと肩を並べて歩く。夜は少し肌寒いなと思っていたら、間も無く隣から小さなくしゃみが聞こえてきた。風邪を引きやすい恋人が心配になって肩を引き寄せると、シャツ越しの肌が温かく感じた。この人の体温は子供並に高いのだ。 「渉さん達、幸せそうでしたね」 「そうだね。暫くは何もないことを祈ろう。隼人君もお疲れさま。明日から仕事か……って毎週言ってる気がするけど、嫌だなー。ねえ、今夜も泊まってく?」 見上げる仕草が可愛くて、このまま流されて泊まりたくなった。が、今夜は帰って来いと兄貴に言われていたのだ。 一緒に帰って、シャワーを浴びて、なごみさんを抱いて、倒れるように眠りにつけたら最高に幸せなのに、兄貴の怒り顔に全てを消された。これ以上怒らせたら、流血騒動が起こりそうだ。 「兄貴に呼ばれてるんで、今夜は家に帰ります。3回ぐらい忘れてすっぽかして、ラストチャンスなんです。次やったら殺すって真顔で言われました」 「3回も?隼人君らしくもない。んー分かった。今日は寂しく1人で寝るよ。寂しいなぁ。あー寂しい」 「ちょっとそんなこと言わないでください。俺の命が掛かってるんですから。なごみさんに寂しいって言われたら、そっち行っちゃうじゃないですか」 「へへへ。お兄さん怒らせちゃダメだよ。今日は家に帰ってね。きっと大切な用事なんだろう。気になるね」 拗ねたように唇を尖らせて、俺の腕からすり抜けたなごみさんは、哀愁を漂わせて笑った。俺には優先順位がある。恋人の信用は絶対なので、何があってもなごみさんが1番に来る。だが、今回ばかりは兄貴が優先だった。 人気の無い道でキスを済ませて、駅でなごみさんと別れた。明日また会社で会える。そう思うと、今日の別れも苦では無かった。 本社に異動になってから、仕事も私生活も充実していた。恋人が隣で笑ってくれることの幸せをしみじみと感じながら、暗くなった和菓子屋の裏口から家に入った。 最寄駅に着いた時点でメールをしたので、リビングには風呂上がりでテレビを見ている兄貴がいた。兄貴は俺を見た途端、座れと合図を送ってくる。まあ、このごろ実家である和菓子屋『光月庵』が、ざわついているのは知っていた。見て見ぬ振りをしていたら、案の定、兄貴から呼び出しを食らったのだった。 「ようやくお前とゆっくり話ができるよ」 飲んでいたお茶のグラスを置いて、兄貴は俺に話を始めた。渉さんの影響からか兄貴は休みの日以外は全く酒を飲まなくなった。待鳥先生リスペクトは止むことがない。 俺が本性を伝えたら兄貴はどうなるのだろうか。ラブラブな恋人がいることとか、言ってみたいが後が怖い。 「お前も知っていると思うが、来週からここに職人見習いを入れる。俺が昔いた料亭の息子さんだ。歳はお前より下で、ぶっきらぼうだが悪い奴ではないから、見かけたら優しくしてやってくれな。気にかけてもらえると助かる」 「ああ、それは母さんからも聞いた。帰りも毎日遅いし、会うことは余り無いと思うけど気を付けておくよ」 休日もなごみさん家が多いから、そいつに会うことは殆ど無いと思う。会っても俺にあまり関係がない。挨拶する程度で終わるだろう。 「あと、これからが本題なんだが、店内をもう少し広げたいと思ってるんだ。お前の会社ってリフォームとかやってるか?」 「リフォーム?やってなくはないけどさ、5年前にやったばっかじゃん。」 俺の会社は、空間プロデュースなんてカッコいい呼び名を使っているが、要はリフォームが主な業務だ。それに伴った家具や備品も併せて販売し、場合によってはセキュリティも手配する。 現在、俺が本社でやっていることとは、全く別の試みで、若者向けの提案だが、古巣にはそれを得意とする営業マンがわんさかいる。 「いや……イートインスペースっていうやつを作りたくてさ。お前の会社は大っきい商業施設の店舗とかやっているだろ?それみたいなお洒落な感じにしたくて。どう?紹介してよ。」 「見積もりを出してもらってから決めればいいけど、けっしてうちは安くないよ。和風は得意だから、それなりにはなると思う。支店の奴を誰か紹介するよ。近いうちに訪問するように伝えとく」 「頼んだよ。ここで和菓子を食べながら、お茶やコーヒーを飲んでもらうのが俺の夢だったんだ」 兄貴の夢を初めて聞いたが、それなりに儲かっているから投資も可能だろうと思った。 喫茶スペースが実現したら、母さんが忙しくこき使われるだろうと、その姿を思い浮かべて気の毒になった。
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