第1章

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 どれほどそうしていたことだろう。何かが琴線に触れ、我に返った京極の耳に飛び込んできた、聞き慣れぬ声。どう聞いてもそれは男のものだった。  しかもその声は家の中から聞こえてくる。姉の声と共に……。  血液が音を立てて落ちていき、ぐらりと体が揺れたような気がした。  まさか……?  やはり白川の言った通り、雅樂に男ができたのか?  とくとくとくと、心臓が口から飛び出してきそうな勢いで脈打った。  中に入ってきちんと確かめるべきだ。しかしそう思っても、足に根が張ったように動かない。  永遠のような、それとも刹那のような、そんな曖昧な時が流れたが、それは突然終焉を迎えた。立ち尽くしている目の前で、何の前触れもなく扉が開いたのだ。  大きく瞠目して立ち尽くしていると、扉の向こうから一人の男が姿を現した。男は京極に気付いたのか、視線を下に落とす。  視線が絡んだ瞬間、ひゅっと喉が鳴った。  ひどく整った顔をした男だった。こんなに綺麗な顔をした男を、これまで見たことがない。だがそれ以上に、激しく警鐘が鳴り響いた。  この男は危険だ!  早く目を逸らさなければ……。そう思うのに、何故か視線を動かすことすら出来ない。  魅入られてしまう。まるでこの男は甘美な麻薬だ。  冷たい汗が背中を伝い落ちた。触れれば切れる刃のような鋭い視線に、雁字搦めに絡め捕られる。  だがそれは唐突に打ち破られた。   「あら、奏ちゃん。帰ってきてたの?」  真冬の寒さに凍えるような空気が、春の陽だまりのような温もりに一瞬にして変化した。その声に、張り詰めていた空気に呼吸をすることさえ忘れていたことを思い出し、大きく息を吸う。   「ちょうどよかったわ。紹介するわね。こちらは栗栖さん。栗栖さん、この子が弟の奏よ」    姉の声が弾んでいる。こんな声なんて、今まで聞いたことがなかった。うっすらと目許が薄紅色に色付いていると思うのは、先ほどの白川の言葉に毒されているからだろうか。  思わず男を睨み付けると、彼は意外なものを見たような顔をして少し目を見開き、そして口許に弧を描いた。  あまりにも冷酷な微笑み。  敵わない。  咄嗟にそう判断して、雅樂を庇うように背にして立ちはだかった。途端に男はくつくつと喉を鳴らす。   「どうしたの?奏ちゃん。栗栖さんに失礼よ」  姉には見えないのだろうか。この冷たく凍えるような笑みが……。
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