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「姉上はあの男に騙されてるんです!」
男が去った後、共に家に入った京極は開口一番にそう言い放った。姉はそんな剣幕に、吃驚したようにぱちりと瞬きをする。そしてじっと見詰めてきてから、コロコロと鈴が転がるような笑い声を上げた。
「やぁねぇ。奏ちゃんったら何を言ってるの」
「あの男は危険です。近寄らないほうがいい」
それは単なる勘だ。いや。防衛本能で、あの男から漂う徒ならぬ気配を感じ取ったのかもしれない。だがそんな曖昧な言い分で、納得するはずがなかった。
「奏ちゃんは、あの人のことを知らないだけよ。本当にいい人なんだから」
そう言ってにこりと笑う雅樂はあまりにも幸せそうで、途端に体の奥底でドロドロとしたどす黒い感情が髑髏を巻いて鎌首を擡げる。
あの男は京極から、姉を取り上げようとしているのだ。この世でたった一人の、最愛の姉を……。
「次に会った時に、ちゃんとお話してごらんなさい。すごくいい人だって分かるから」
「どこで知り合ったんですか」
あれほどまでに危険な香りがする男と、あまりにも凡庸な雅樂。この二人に接点など、あり得るのか。
ふと湧いた疑問にしかし、雅樂は笑い声を上げた。
「やだぁ。奏ちゃんったら、おませさんなんだから……!」
誰が惚気話を聞かせろと言ったのか!むしろそんなもの、頼まれたって聞きたくない!!
頬をわずかに上気させ、恥ずかしさを誤魔化すためか。バンバンと肩を叩かれて、思わずムッと顔を顰めた。
「とりあえず俺はあんな奴、認めませんから!!」
まるで突然結婚相手を紹介された父親のようにそれだけを言い置いて、自室に籠城を決め込んだ。吃驚した姉が何度も扉を叩くが、今は顔を合わせたくない。
これが姉の幸せに繋がるのなら……。そう考えてはみたが、それもどうしても無理だ。あのひどく整った顔を思い出すだけで、ぞくりと背筋に冷たいものが伝い落ち、自然と体が震え出す。
今まで、こんなことはなかった。どちらかといえば誰に対しても物怖じしない、いっそ不遜な子供だったのだ。
あの男はいったい何者か。それはすぐに知れることになる。
この時京極は、気付いておくべきだったのである。あまりにも普段とは違う、姉の様子に……。
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