今川治部大輔義元

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「しかしなんで河東って地域は北条に従ったんだ?今川軍が負けたからか?」 俺の問いに雪斎は 「…確かに今川軍が負けたのも原因の一つだ。義元様は家督を継いだばかりであり若かった。義元様はまだ19歳だ。」 19歳と聞いて言葉を失った。俺が生きていた時代なら大学生くらいの年齢だ。そんな年で家を背負う当主になったというのか。そんな俺を尻目に雪斎は話を進める。 「義元様は若かった故に家中の者に甘く見られぬよう軍を派遣したのだ。だが相手は北条家2代目当主氏綱…北条を名乗り始めたのは氏綱からであるから初代北条家当主と言っても変わらんだろうが。経験の差が違い過ぎた。そも河東は北条家の領土と近く北条家の勢力が及びやすい地域だった。更に河東には葛山氏広という者が居たがその者は氏綱の弟なのだ。氏広は先代氏輝様の治世までは今川家に出仕していたが氏綱が今川領に侵攻した際北条方に組した。葛山氏が北条側に付いたことにより揺れる河東の国衆が今川軍の敗北で完全に北条に流れたのだ。唯一富士信忠だけが今川方に残ったが信忠は先の家督争いにおいて我々に味方した男だ。義元様は信忠に感状を出しその忠節を賞した。」 なるほど。元々北条家に近い連中が多かったという訳か。そんな中で今川に忠誠を誓った信忠って人は凄いと思った。しかし一つ疑問に思った 「しかし遠江の方でも反乱が起こったんだろ?東からは北条が迫ってきてるし父上はどうやったんだ?」 「まず遠江で反乱を起こした者について語ろう。遠江見附城の堀越治部少輔貞基と堀越六郎貞延がそうなのだが貞基は今川家六代目当主今川陸奥守貞延の息子であり北条にお主こそ今川家の当主に相応しいとでも唆されたのだろう。もしくは家督争いが起こった時に漁夫の利を狙おうとしたのだろう。そして奴らは見附にて挙兵した。天野宗家の当主の息子天野与四郎景泰もこの挙兵に参加した。まあ他にあまり兵が集まらず義元様が堀越討伐の為に軍を派遣し貞基は討死した。景泰は堀越討伐に参加して戦功著しかった小四郎虎景と孫四郎景義によって匿われ後に義元様によって許され宗家の家督継承を許された。これにより遠江の反乱は一旦収まった。」
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