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「その靴、みせてもらえませんか?」
「あぁ」
僕はにべもなく答えた。きっと、馬鹿にされているんだろう。辱しめとイライラから、やはり今日は最悪の日だな、と思った。
「いいデザインだ...これは流行るぞ」と青年はなにやら独り言っている。そして彼は折り入って言葉を続けた。
「これ譲ってもらえませんか?」
「何?」
思わず声を大きくした。
「その靴を?そんなもの貰って、どうするんだ?」
「売るんです。あ、実は私、靴を専門とする会社に勤めていまして......」
「売るって、釣り上げた靴を?」
僕は彼を遮って尋ねた。その問いに彼はきょとんとした表情を浮かべながら、半ば戸惑いつつも「ええ、まぁ......」と答えた。
「作らないの?」僕は吃驚とした声音で再び訊く。
その問いに彼は失笑を漏らしながら「いやいや」と続けた。「こんな精巧無比なもの、作れませんよ」
「え?そうなの?」
彼は当たり前じゃないか、と言わんばかりに渋面で「えぇ」とだけ答えた。
確かに僕は靴を作っている行程を見たことがないが、まさか釣り上げていたとは驚きだ。てっきり、工場かなんかで縫ったりしている物だと思っていた。
「魚だって、機械で動きを再現できたとしても、実物までは作れないでしょ?」と彼は言う。
確かにそう言われてみると説得力があった。
とりあえず僕は、その日釣り上げた靴──のべ20足以上を全て彼に譲り、少量の謝礼金を頂いた。
この事を妻や会社の同僚に話してみても、皆も既に知っていたようだった。この何十年間もの人生で、そんな誰もが知っているような一般常識を知らなかっただなんて、何とも恥ずかしい話である。
世の中には自分が知らないことが沢山あるんだな、と心に刻み、僕は昼の業務を行う為に、街路樹の並ぶ公園まで車を走らせた。
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