そして、深い海の中に

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 リョウとのことで頭がいっぱいになりそうなのを、懸命に勉強することで何とか誤魔化して過ごしている、そんなある日のことだった。  悠は『死ね』とだけ書かれたメモを捨てられず手の中に握りしめて、溜め息混じりに予備校の帰り道を歩いていた。 店が忙しい金曜はリョウの店に寄るつもりなどなく私服は持って来ていなかった。それゆえに制服のままであった。ふと頭の中に『金曜日だって土曜日だって、悠が来たいときは店に来ても構わないんだよ』と囁く、あまい低い声を思い出した。 (でも…金曜の夜なんて稼ぎどき、だよな。)  そう思いながらも… (会いたい、な………)  疲れた心が彼に甘やかされたがっている。  向けられる敵意はリョウに教わったとおり上手く躱せたと思うけれど、疲れ果ててしまった。自分らしくもなく、学年首席のクールな生徒会長を演じていた。それがあの闘争心の激しい生徒が多い学校で無難に過ごすための手段とはいえ、本当はクールなんかでは到底なく繊細で傷つきやすい悠には心がひどく疲れる。 (どうしよう、だめなのに。迷惑を掛けたくないのに……いつものカウンターに座らないで、遠くから見るだけなら)  きっと、流れるような仕種で次々と色とりどりの綺麗な飲み物を作り、うっとりするほど美しく接客する姿を一目みたらきっとまた頑張れる。  抜け出して、キスして慰めて欲しいなんて我が儘言わないから……  制服のままリョウのいる店、Deep blueへ向かう道を進む悠。そして、引き寄せられるように地下の店へ続く階段を降りた。  しかし、店の扉に手をかけたところで悠の動きは止まってしまう。 『悠の細やかな気遣いが出来るところ、俺は好きだよ』  リョウの声が頭に甦る。 (大人なあの人の邪魔をしたく、ない。)  そう思って身体を暖かで涼やかな海の底に通じる扉のドアから引き剥がした。すぐそこにきっと彼はいるのに。そう思いながらも重たい足で店の外に続く階段を昇ろうとしたところで。 「あれぇ?悠くん?めっずらしい、制服姿じゃん。」 テレビから流れ出るアイドルのような声にぎくり、と躯を強張らせた。 「あ……え………と……ハヤトさん……」  悠が手を掛けていたDeep blueのエントランスの扉ではなく、従業員用の奥の扉から重たそうな酒瓶が沢山入ったケースを持って出てきたハヤト。相当重いだろうに、悠を見つけるとアイドルにもなれるんじゃないかというほどの美貌に王子様のような笑顔を浮かべる。 「リョウさんいるから入んなよ。制服の上着脱げば大丈夫だよ。よかったー、悠くん来てくれて。もうリョウさん今日あんまり機嫌良くなくてさ。これで……」 「…あ、でも……俺、今日はやっぱり……帰るんで、すいませんっ、リョウさんには俺が来てたって言わないで下さいっ」  ハヤトの言葉が終わる前に悠は言うと、まるで何か恐ろしいものから逃げるうさぎのように身を翻して海の底から地上へ続く階段を駆け昇ってしまった。 「悠くんっ?!」  ハヤトの驚いた声が背中に届いたが、悠は立ち止まらなかった。  走って走って悠が辿り着いたのは繁華街の裏側にひっそりと佇む公園。 賑やかな通りから少し奥まっているところで、公園に設置されたの公衆トイレの壁にはスプレーで落書きされた跡があり、この公園があまり治安が良い場所でないのは見てとれる。思わず来てしまった駅とは反対側にある公園。  お世辞にも綺麗とは言えないベンチに腰掛ける気にはなれず、何をするまでもなく公園の真ん中に佇んだ。          
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