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粘ついた空気から逃れるように、自然と足早になる。
一際賑やかな通りにあるビルの地下に続く階段を降りると、美しい海の中にいるような蒼いライトに照らされた入り口。
『Deep Blue』とだけシルバーの小さなプレートに刻まれていた。およそ店のドアとは思えないシンプルなそれをそっと開ける。
開いた途端ずしり、と躯の奥深くに響く低音のミュージックが漏れ出す。
特にそれが好きなわけではなかったが、この音楽を聴くと外の煩わしさとは切り離された深い海の底のような世界に連れて行ってもらえる、そんな気持ちになれる。
店内の海の底にいるような蒼い雰囲気のとおり、其処の空気も冷んやりと涼やかで、悠はふ……と一息漏らす。すると外界の汚い空気が胎内から消え、躯の中からこの店独特の蒼い空気に満たされていくようだった。
まだ週の半ばであるというのに、多くの人が犇めくフロアの奥。
悠が目指すのはドリンクカウンター。
バーのカウンターのようになっている造り。その前には幾つか脚の長いスツールが置かれている。
そのドリンクカウンターの中ではこの店のオーナーであるリョウがシェーカーを振っていた。
グラスを置いたシルバーのトレーが、一番端のスツールの前のカウンターにさりげなく置かれている。それは、この半年ほどで悠の座席であるというマーカーとして置いてくれているのはわかっていた。しかし、勧められることなしに其処に座るのは憚られた。いつもリョウの手元にあるオーダーが一段落するまでは、彼の流れるように美しい所作を眺めて悠は声をかけるタイミングをそっと待つ。
長いときは30分近く壁に凭れて眺めているだけという日もあるが、悠はその時間は嫌いではなく、むしろ好きだと言えた。
まだ17歳で勉強が出来るといったこと以外特段取り柄のない悠を、この蒼い海の底をイメージした店の片隅にそっと置いてくれる、Deepblueの若きオーナーであるリョウ。
通い始めてしばらくした後、こっそり本名は鳴島涼太で歳は今年27になるのだと教えてくれた。
『本名を知ってるお客さまは居ないから、今日から君はお客さまでは、なくなるよ?』
いいよね?
そう言ってくれた砂糖菓子のように甘いのに、腰に響くようなバリトン。それと彼のいたずらっぽく瞬いた蒼い瞳を思い出すとじっとしていられないほどそわそわと落ち着かない気持ちになる。
168センチの悠ならば、立って話すときは完全に首を上に向けなければ視線が逢わぬほど背が高く、瞳は店のテーマカラーと同じ色だ。カラーコンタクトなどではなく、サファイアのように透明度の高い蒼は、一目見たものを捉えて離さない。
漆黒の髪を時おり掻き上げるときは、その漏れ出る色気に、店の中からきゃあと黄色い声が上がることもあるくらいだ。夜の仕事のせいか、持って産まれたもののせいかわからないが、透けそうに肌が白い。目や鼻や口などといったパーツは、神が特別に細かく計算しつくしたに違いないと言われるほど完璧に配置されていた。そんなリョウが手元のオーダーが書かれたメモを横目で見ながら次々と鮮やかな色とりどりのカクテルを作り出していく様は、いつまで見ていても飽きなかった。
繊細なカクテルグラスに海に沈む太陽のような色の液体をシェーカーからとくり、とくり…と注いだリョウの指先を悠はうっとりと眺めていた。
最後まで注ぎ終えたリョウがグラスからつ………と視線を上げた。
蒼い瞳が悠を捉えて優しい声で呼んだ。
「悠……おいで……」
悠はまるで自分が飼い犬にでもなった気持ちで彼が用意してくれていたスツールに吸い寄せられるように向かった。
「こんばんは、リョウさん」
少しだけ掠れてしまった声を恥ずかしく思ったが、リョウはそんなことを気にもかけず
「こんばんは、悠。今日もちゃんと勉強してきたかい?確か……今日は物理の講義の日だね?」
「はい」
悠が答えると、リョウはその日学習した範囲を聞き、さっと幾つか復習の問題を出してくれる。その場でぱっと考えたものであるにも拘わらず、テストに出題された問題と酷似していたりするから驚きだ。
悠の前にすっ……とスモークサーモンとケッパーのサンドイッチに綺麗にカットされたオレンジを添えたアイスティーをベースに作ったノンアルコールのカクテルグラスを置いた。
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