Deep blue

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Deep blue

 日が暮れて時間は大分過ぎたというのに、息苦しいほどに暑く湿った空気が躯に纏わりつく夜の九時。  予備校で物理の授業を終えた麻生悠は講義が終わり楽しげに会話するいくつかの声に混ざりいつものとおりその自動ドアを出た。 「今日やったとこ来月の定期試験の内容と被るな。麻生はもうとっくに予習済み、だろ?」  探るような視線を向けてくるのは、都内にある私立の中高一貫校で毎年東大に幾人も合格者を出す悠の高校の同級生であった。 「いや、まだやってなかったよ。忘れないうちに復習はしておくつもりだけれども」 と返した悠に 「今日だって当てられてスラスラ答えられてたじゃないか」 さすが、わが校の主席様だよな、と嫉妬に濁りきった瞳で告げられても、嬉しくも何ともないわけで。  でも、そんなちいさなことにも傷ついてもいないふりをする術はあの人が教えてくれた。  足早に駅まで歩く。隣を歩く名ばかりの友人達と一刻も早く別れるために。   制服で予備校に来る者が多い中、私服にわざわざ着替えて来るには訳があった。見る人が見れば一目で計算され尽くしたスタイルのカットソーとヴィンテージもののジーンズ。だが、お洒落に興味のないクラスメイトたちが見れば、何てことはない無難な洋服に見えるもの。  だが、その柔らかで軽やかな手触りからブランドに疎い悠でさえ触れてみればとても高価なものだとわかった。そんな高価なものはもらえない、とプレゼントされたときは何度も断ったのだけれど。皮膚が薄くて敏感な悠のために選んだのだと心酔している彼から言われたら、悠は断ることなどできなくて。  ざわり、ざわりと未だ賑やかな駅前で漸く形ばかりの友人と別れた後、幾つもの飲食店の雑多な匂いが混じり合う駅の裏にあるコインロッカーに勉強道具が入ったバッグを押し込む。野暮ったい眼鏡をケースにしまい、乗るはずの電車が滑り込む駅の改札とは逆方向の賑やかな繁華街に向かった。  アクセサリーの類いは好きではないが今日のスタイルのアクセントに、と贈られたリング。安い金属ではアレルギーを起こしてしまう悠のために選ばれたプラチナのそれをポケットから取りだし、人指し指にそっと嵌めながら通い慣れた道を歩く。嵌めた人差し指が仄かに熱く感じるのは、とりわけ皮膚が薄く敏感な故であろうか、他に理由があるのか。  人より皮膚が薄い悠には、澱んだ都会の空気はチクチクと肌を刺すように感じられる。そのため暑くても長袖は欠かせなかった。          
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