第1章

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 「え?」  いつの間にか、隣には大学生くらいの若い男が立っていた。手紙の続きと同じ台詞を放ったその男は、さらに続けた。  「良かった、ありましたね。この絵、なかなか出てこなかったから――」男が指差したその絵は、グスタフ・クリムトの”接吻”。由紀子が一番好きな絵だった。  「あ――」  「すいません、図々しかったですよね。美術館で声をかけるなんて」  「そうじゃなくて、その手紙って――」由紀子は男の手に持たれた手紙を指差した。  「ああ、これは――よくわからないんですけど、展覧会の誘いみたいで。誰が送ってくれたのかもわからないんです」  「差出人も?」由紀子は訝しがった。親しい仲なら差出人を書かないこともあるだろうが、そういった口ぶりではない。見ず知らずの人間から送られてきたのなら、不気味で仕方ない。  だから、得体の知れない手紙を持ってここに訪れたこの男も相当な変わり者だな、と由紀子は思った。それに先ほど拾った手紙の続きを読み上げられたのも不可解だ。あるいはこの男の作り話かも知れないとさえ思った。  「でも、この絵が見たかったから、ここに来られて良かったんです」  男は改めてその絵を指した。  「”接吻”――」  「はい。素敵な絵ですよね。クリムトの作品の中でこれが一番好きなんです。なんだか途轍もない情動が込められている気がするんですよね」  男は屈託のない笑みを由紀子に向けた。それを見た時、本当に彼は誘われるまま、ここへ来たのだと感じられた。  「私もこれが一番好きかな」由紀子がそう返すと、  「そうなんですか! これは本当にいい絵ですよねえ」とまた嬉しそうな表情を浮かべる。こんな出会いも意外と悪くないかも知れない、と思えた。仄かに温かい気持ちになって、大好きなその絵を見つめる。ゆっくりとした時間が可視化される。  やはり今日はクリスマスイヴだったのだ。子供も、若者も、大人も――みな少しだけ不思議なことを待っている、素敵な日なのだ。
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