第1章

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 隅田に声をかけられ、はっと我に返る。その様子が可笑しかったのか、彼はクスクスと笑っている。  「ぼくもそんな感じでした」  「それって、”ダナエ”を見た時?」隅田に促されて、また歩き始める。  「”ダナエ”というか、美術館に初めて来た時だったかなあ――、すごいなあってただただ思って、動けませんでしたよ。その時の”感じ”を記録したかったですけど、意外と難しくて」  大切な思い出を取り出すような、とても優しい口調だった。きっと、夢中になりやすい実直さに加えて、豊かな感性も備えているのだろう。それは羨ましく、眩しい要素でもあったが、由紀子は体験を共有できたことを嬉しく思った。  「三船さんが、”ダナエ”の前で釘づけになったような感じ――、色んなものを知っていくのはすごく楽しいですけど、その初期衝動には敵わないんです」  「そういうものなの?」  「そういうものです。三船さんももう立派な――あ、これだ。”死と生”、これで最後ですね」  「最後?」  「はい。このあとはなにも」隅田は少しがっかりしたという様子だった。先ほどの初期衝動というものを、ひょっとしたら隅田は今も求め続けてるのかも知れない。由紀子がそれを得たことを、あるいは羨ましがっているのかも――そう考えると、由紀子は誇らしい気持ちになった。  「”死と生”ってクリムトの中でも後期にあたる作品なんです。色使いも以前とは違っていて、ぼくはそれも好きなんですけど」  「へえ。私も好きだな、この絵」  「いいですよね。それにしても――、”接吻”、”ダナエ”、”死と生”――、この順番って、人生みたいだな」  「人生?」由紀子は少し戸惑った。見る順番の意味というものを考えたことがなかったからだ。その点、隅田は鋭いところを捉えていると思った。企画展は基本的に一方通行だ。それには人を捌く意味合いも大きいだろうが、順路に沿って歩けば、年表や歴史など、絵画を補足する解説と出会う。そもそもにして、主催者が企画し、絵画を集めているのだ。そこに意図するところがあると考えるのは至って自然なことだった。  「お遊びだったのか、真剣だったのか――」少し悩んで隅田は続けた。「送り主は人生の大先輩かも――なんて、考えすぎですかね」
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