男 I

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 入院から一ヶ月。「大事なことなので」と、主治医は妻をおれの病室へ呼び出した。医者以外に人が来るのは初めてだ。 「久しぶりだな」 妻に声をかけたが、こちらを見ただけだった。この前顔を合わせたのは正月だから、もう三カ月も会っていなかったことになる。  「お話というのは?」 妻は、おれのベッドの隣に座っている医者に聞いた。 「はい。二つ、お伝えしたいことがあります。大変申し上げにくいのですが…」 「余命宣告、とかかな?」 おれの方から聞いた。事務連絡は短い方がいい。 「…はい。三ヶ月ほどかと」 驚きはしなかった。少し長いとすら感じた。だが、その後に続いた、「二つ目」の連絡は、おれの予想し得るものではなかった。 「実は、まだ検証段階ですが、『不死の薬』とも呼べる薬が出来ているんです。被験者になってみませんか?」 おれも妻も、気の抜けた声を出した。二人で同じ反応をしたのはいつぶりだろうか。ともかく簡単には受け入れられない。少し間をおいた後、医者は説明を続けた。  彼が話すにはこういうことだった。先日、延命効果のみにおいて完璧を誇る薬が完成した。それが不死の薬だ。投薬している期間は病気や寿命で死ぬことはなく、いつも通り生活できる。ただ薬の効果はあくまで「死なないこと」であり、「病気を治すこと」ではない。まだ検証中であることや倫理的な問題もあることから、おれのように治療の余地がない患者にだけ試験的な投薬を行っている。 「もちろん『不死の薬』の存在が知れ渡れば、不正に求めようとする人や混乱が発生しかねません。ですからこのことはご家族以外、他言無用でお願いします」 「なるほど。聞いたことも無いわけだ。だが、それはつまりおれの場合、癌の痛みに苦しみながら生き続ける事になるんだろ?…生き地獄じゃないか」 「そういえば投薬方法をお伝えしていませんでした。『不死の薬』は点滴で投薬するのですが、それと一緒にボタンをお渡しします。そのボタンを面会時間外に押すと、点滴と連動して次の一日分だけ投薬される仕組みです」 「つまり明日生きるかどうかを選べるというわけか」 「はい。面会時間中に押しても反応しないのは、本人以外の意思でボタンが押されることを防ぐためです。もちろんボタンを押さなかったからと言って、翌日寿命がくるとは限りませんが」
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