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少女 I
「あの人の余命を言われたわ。あと三ヶ月って」
家計簿をつけながら、お母さんはそう告げた。何と返したらよいか分からなかった私は、「そう」とだけ言った。
血の繋がった父親とはいえ、会う頻度は近所に住む叔父の半分にも満たない。余命三ヶ月と言われても、実感がわかなかった。父の死にではない。その存在にだ。
「それとね、よくは分からないけど不死の薬っていうのがあって…」
お母さんは続けようとしたが、もう家を出る時間だった。
「ごめん、お母さん。陸上部の朝練があるから。帰ってきたら…あ、仕事、今日は遅番か。今度聞くから」
伝えると、鞄を持って部屋を出た。玄関に一番近いドアの前で足が止まる。父がかつて書斎に使っていた部屋だ。父の姿を思い出そうとしたが、頭に浮かぶのはここでパソコンに向かう背中くらいだった。立ち止まっていると床と足とが離れなくなってしまいそうで、私は頭を振ると早足で家を出た。
今日の朝もいつもと変わらない景色だった。花に水をやる向かいのおばさん。川沿いに生い茂る草。「神様は乗り越えられる試練しかお与えになりません」と声を上げる、駅前の宗教団体。全ていつも通り…そのことが何故か、私には変に思えた。
学校に着いてからもそれは同じで、決まった時間になると顧問のミーティングで練習が始まった。毎日変わらない掛け声とアップ動作を済ませると、次はリレーメンバーでのバトン練習になる。
いつもと変わらない。ただ私だけがおかしかった。楽なスピードのはずなのに、どうしても足が回らない。さすがにメンバーも気付いたようで、バトン練習の後で声をかけられた。
「どうしたの?全然いつもと違うじゃん。地区予選までもう一ヶ月なんだから…」
そのとき、私はまともに立てないほどの孤独に襲われて、「ごめん、調子悪くて」と言うとすぐトイレに駆け込んだ。
たくさんの感情がごちゃまぜになっていた。悲しかったし、苛立たしかったし、何より寂しかった。まるで世界の残酷な真実を私だけが知っているようだった。いつも通りの日常は当たり前なんかじゃない。
声を殺して泣いた。しばらくそうした後、久しぶりにその言葉を口にした。心の中で思っていただけのつもりだったのに、気が付けば声に出していた。
「お父さん…」
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