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「旧校舎は……来年建て替えられるそうだ」
コーヒーを持ってベッドへ戻ると、唐突に彼が切り出した。朝日の光が薄いブルーのカーテン越しに伝わり、彼の顔をほんのりと照らす。ブルーは彼が選んだ色――空の色だと言っていた。
「無くなってしまうんですか、あの部屋」
彼のすぐ傍に腰かけてカップを手渡す。動けないと言われてしまってから、俺はいそいそと世話を焼き続けている。少し辛そうに身体を動かす姿に申し訳なく思うけれど、頼られるのが嬉しいなんて言ったら怒られるだろうか。
「もともとお前が卒業する頃には話があったんだ。それが確実になっただけだ」
だけ、という言葉の中には複雑な心境が顔を覗かせる。
「寂しいですか?」彼の横顔に問いかける。
「寂しい……そうだな。あの部屋も、校舎も、俺が生徒の頃からあったんだ。俺もお前と同じ席で勉強していて……いろいろあった。本当にいろいろ……」
口を閉ざし、カップの中を見つめる。落とされた視線に俺の中でまた不安がよぎった。また手の届かないところに行ってしまうのではないか。
「樹さん……」
「でも」彼は視線を上げずにつぶやく。
「お前が戻ってきてくれたから……今はもう、良いんだ。お前がいるから」
寂しい、悲しい……それだけで表すことができない思いはまだ彼の中に残っている。資料室の窓から見る素っ気ない景色も、古びた椅子の軋む音も、雨の日に満たされる木の香りも――彼が見たもの、俺が感じたものは少しずつ違うのだろう。あの場所で共に過ごしたのは、わずかな時間だったけれど。同じものを見せてあげることはできないかもしれないけれど。これから二人で見る景色はずっとあたらしく、きっときれいだ。
細い腰に手を回す。肩口に顔を埋めるとくすぐったそうに身をよじる。痛い、という言葉にどきりとして顔を上げれば、間近で優しい眼差しが注がれる。
どちらからともなくキスをする。くすりと笑って、俺たちはまた唇を重ねる。
明日は二人で出かけようか。きっと空は晴れているから。
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