番外編:六花《りっか》咲く常陽《じょうよう》の楼

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*****  慶嘉(けいか)六年十二月、(しゅう)朝五代皇帝睿宗(えいそう)潤麒(じゅんき)の寵姫である關貴人(かんきじん)こと關晶(かんしょう)(字は六花(りっか))は、刺客の放った矢に(たお)れた。享年二十七。二十二歳の皇帝にとっては幼い頃から寄り添ってきた姉のような存在であった。  彼女の暗殺は寵愛を危ぶんだ(とう)皇后による策謀とも、はたまた前年に嫁いで当時は淑妃の地位にあった突厥王女・()氏、後の慈恵(じけい)太后がかつて西討大将軍として祖父の突厥王を敗死させた關翔(かんしょう)とその遺児である關貴人を憎んでいたためとも伝えられている。真相は定かでない。  ともあれ、愛妃の死を深く悲しんだ慶嘉帝は生前は下位の貴人に留められた六花に皇后に準じる皇貴妃の地位を贈り、(おくりな)を「武賢皇貴妃」という。  また、彼女の住んでいた常陽殿(じょうようでん)は生前のままの姿に留め、他の后妃を住まわせることは決して無かったという。  慶嘉四十年十一月、皇都・燕京に初雪の降った日の午後に皇帝潤麒は世を去った。 ――次にこの庭に風花(かざはな)が舞い散る時には(ちん)は世にあらず。  その年の秋、常陽殿の庭の蓮池に緋色の楓の葉が次々落ちて水面に漂う様を眺めて呟いた言葉の通りになった。  享年五十六。十七歳で即位して四十年、かつての紅顔はその色を失って深い皺が刻まれ、烏珠(ぬばたま)の髪は雪を延べたが如く白く変わっていた。
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