36人が本棚に入れています
本棚に追加
*****
慶嘉六年十二月、周朝五代皇帝睿宗、潤麒の寵姫である關貴人こと關晶(字は六花)は、刺客の放った矢に斃れた。享年二十七。二十二歳の皇帝にとっては幼い頃から寄り添ってきた姉のような存在であった。
彼女の暗殺は寵愛を危ぶんだ董皇后による策謀とも、はたまた前年に嫁いで当時は淑妃の地位にあった突厥王女・史氏、後の慈恵太后がかつて西討大将軍として祖父の突厥王を敗死させた關翔とその遺児である關貴人を憎んでいたためとも伝えられている。真相は定かでない。
ともあれ、愛妃の死を深く悲しんだ慶嘉帝は生前は下位の貴人に留められた六花に皇后に準じる皇貴妃の地位を贈り、諡を「武賢皇貴妃」という。
また、彼女の住んでいた常陽殿は生前のままの姿に留め、他の后妃を住まわせることは決して無かったという。
慶嘉四十年十一月、皇都・燕京に初雪の降った日の午後に皇帝潤麒は世を去った。
――次にこの庭に風花が舞い散る時には朕は世にあらず。
その年の秋、常陽殿の庭の蓮池に緋色の楓の葉が次々落ちて水面に漂う様を眺めて呟いた言葉の通りになった。
享年五十六。十七歳で即位して四十年、かつての紅顔はその色を失って深い皺が刻まれ、烏珠の髪は雪を延べたが如く白く変わっていた。
最初のコメントを投稿しよう!