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そういって、俺は彼女の正面に立つ。
彼女は「うん。うれしい」と一言言って、俺に抱き着く。
実態はないはずの彼女だが、なぜか感覚だけが俺の体を包む。
俺も抱き返すが、俺からは透けてしまい、ポーズだけをとっているように見えるようになってしまう。
「ありがとう」
その一言が、俺の胸に深く突き刺さった。
そして、彼女は俺の顔に顔を寄せてきた。
耳元でぼそぼそっとささやき、ほんの一瞬、キスをして離れていった。
「えへへ、ファーストキス……それじゃあ、行くね!」
笑って、テトラポットの上を軽やかに伝って波打ち際まで行く。
「おい!」
俺はその場から声だけを出す。
すると彼女は振り返って笑う。
そこから俺は、言葉を投げかける。
「あんたはこれまでよく頑張ったと思う! お疲れ!」
「……あの時とおんなじ言葉」
何かボソッと言ったようだったが、聞き取れず、聞き返すと「何でもない! ありがとう!」と言って笑った。
「それじゃあ、さよなら!」
そう聞こえたかと思うと、もうさざ波の音しか聞こえなくなっていた。
ほんの一瞬。瞬きをした一瞬で、彼女は本当にいたのか疑わしいほど、綺麗に消えていった。
でも、彼女の存在は、俺の記憶と抱き着かれた時の感覚、そして、キスの感覚が示していた。
つい数秒前まで、俺に笑顔を投げかけていたんだと、教えてくれていた。
日が沈み切った、まだ赤さを残す黄昏時。
その赤みが彼女のように思えて、徐々に消えていく日の赤を見ながら、俺は一人泣いていた。
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