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「おにいさん、会社を辞めさせられたんですよね?」
「えっ」
振り向くと、彼女はハンドバッグを後ろ手に持って満開の桜を見上げていた。その横顔はこころなしかこわばっている。怪訝に思いながらも、それを表情に出すことなく丁寧かつ慎重に返事を紡いでいく。
「会社は辞めたが、フリーランスとしていまも同じような仕事をしている。この形態のほうが自由でオレには合っていたみたいだから、おまえが気にすることはない……けど、なんで辞めさせられたって知ってるんだ?」
「父親が言っていたので……というか……」
彼女は言葉に詰まり、困ったように顔を曇らせながら目を伏せる。
「おにいさんが逮捕されたあと、あのひとが被害者の父親として会社にクレームを入れたらしいです。うちの娘を誘拐した犯罪者をどうしてまだ解雇してないんだ、みたいなことを」
話し終えるなりふわりとスカートを揺らして振り返った。そして覚悟を決めたような真摯なまなざしで千尋を見つめ、口を開く。
「謝ってすむことではないですが、本当に、本当に申し訳ありませんでした」
「え、いや……」
彼女の父親がそんなことまでしていたなんて、会社からも聞いていなかったので驚いたが、いまとなってはもう済んだことである。それよりも彼女が深々と頭を下げたことにうろたえた。
「頭を上げてくれ。逮捕されたら辞めさせられるのが普通だし、おまえの父親が何もしなくても結果は同じだったと思う。すべてオレが覚悟のうえでやったことで、オレ自身の責任だ」
「いえ、元はといえば私が……」
彼女はなおも思いつめたように言い募ろうとする。
それを止めたくて、千尋は彼女のやわらかい頬を両手で挟んだ。そして大きく見開かれた双眸を真剣に覗き込んで言う。
「ハルナ、おまえが生きていてくれた。もうそれだけでいいんだ」
「…………」
必死の訴えで思いが伝わったのか、あるいは勢いに負けただけなのか、彼女は言葉を飲み込んでこくりと頷いてくれた。千尋がほっとすると、彼女も同じように息をついて淡く微笑を浮かべた。
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