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「紫苑の言葉を信じるから」
ゆっくりと、少し震えるような深呼吸をして、彼は話し始めた。
「父さんに付き合いの長い愛人がいることは、俺も母さんも知っていた。母さんは離婚を恐れて見て見ぬふりを決め込んでいたけど、朱音が東京に行く前日……、俺と母さんは決定的な現場を見たんだ。俺も母さんも愕然としたよ。父さんの愛人は……母さんの妹だった。俺の叔母さんだよ……。父さんと叔母さんはその場を取り繕おうとして必死だったよ。誤解するなとか、話をしようとか……半裸で何を言っても説得力の欠片もなかったな。二人ともヘラヘラ笑って母さんに言うんだよ。忘れてくれ、って。そしたら……母さんが――」
紫苑の膝に染みが一つ、こぼれた。もう一つ、また一つと、染みが増えていく。
私は紫苑の手を握った。
「――笑うな、って叫んだんだ……。『罪を犯した人間が笑うな』って……泣いて叫んだんだ……。その翌日、母さんは大量の薬を飲んで死んだ。俺が見つけた時は……真っ白で……冷たくなってた――」
紫苑が私の手をきつく握り返した。
「あの日から……眠れない。あの日から……笑えない。母さんの声が……忘れられない」
私は彼の頭を抱えるように抱きしめた。
あの日、見送りに来ない紫苑を、少しでも恨めしく思った自分が許せない。
あの日に戻れたら、電車には乗らなかった。
あの日に戻れたら、紫苑のもとに走った。
あの日に戻れたら、絶対紫苑を独りにはしなかった。
あの日に戻りたい。
私は強く思った。
けれど、きっと、絶対、誰よりもそう思っているのは、紫苑だ。
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