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5.温もり
朱音は俺の話を最後まで黙って聞いていた。俺は朱音の手を握りしめることで、確かに朱音がそこにいることを何度も確かめた。
いつか全て話さなければと思っていたけれど、まさかこんな不意打ちのような形で話すことになるとは思っていなかった。
出来るだけ冷静に話そうと、大きく息を吸った。拭っても拭っても溢れる涙だけは、どうすることも出来なかった。
「父さんと叔母さんは母さんの一周忌の後すぐに結婚したよ。俺は就職のタイミングで『今井』から母さんの旧姓の『幕田』に戸籍を移した。俺は父さんと縁を切って、一人で東京で暮らし始めたんだ」
見ると、朱音の目にも涙が浮かんでいた。俺は彼女の涙を舐めて拭った。
「あの日……、朱音も母さんも失って……本当に衝動的に、朱音の番号も写真も思い出も全部捨てた。母さんは一人で死んだのに……俺だけ朱音との思い出に縋って生きるなんて……許されないと思った。だけどっ――」
母さんが死んでから、初めてそれを言葉にして、記憶が少しも薄れていないことを思い知った。
父さんと叔母さんの不倫現場を見た時のこと。取り乱す母さんの姿。それを映画かドラマを見るように眺めている自分。冷たくなった母さんを抱き上げた時の感触。朱音を失った絶望感。一年後に待ってましたと父さんと叔母さんが結婚したと知らされた時の嫌悪感と復讐心。
すべて憶えている――。
父さんと最後に言葉を交わしたのは、大学の卒業式の夜。
父さんは一人で俺に会いに来た。『おめでとう』と言うわけでもなく、『すまなかった』と言うわけでもなく、社会人として、警察官である自分の息子として恥ずかしくない生き方をするようにと、長い独り言を聞かされた。
別れ際、俺が『今井』の姓を捨てたことを伝えると、ようやく父さんは表情を変えた。
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