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高級ホテルの最上階に位置するスイートルームで、張偉(チャン・ウェイ)は苛立っていた。
明かりを消した薄暗い部屋を照らすのは差し込む月明かりのみ。目に見て取れる光と闇のコントラスト。光には、彼の吐き出した紫煙が纏わりついている。
革張りの豪奢なソファにその身を預け、葉巻を吹かしている彼は部下からの連絡を小一時間そうして待ち続けていた。咥えていたその一本を揉み消すために目の前のティーテーブルに手を伸ばすと、灰皿には既に揉み消された葉巻が溢れそうな程に突き立っている。
隙間に押し込むようにして火を消すと、彼は隣に置いてある銀のシガレットケースにそのまま手を伸ばした。引き寄せたケースに重さは無く、開けば案の定、空っぽだった。
「チッ………」
舌打ちをして、彼はケースを力任せに投げ捨てた。ケースは壁にぶつかった後、恐らく開閉の為のバネ細工が壊れたのだろう、カシャン――という子気味の良い音を立て、月明かりの下に開いたまま転がった。蓋に彫り込まれたエンブレムが、月光を反射し浮かび上がる。
茨の巻きついた二本の刀子が十字に折り重なる――それはジャパニーズマフィア、つまり極道、天草組の象徴である。
「ふんっ…何度見ても、日本の猿共には似合わないマークだぜ…」
立ち上がり、張偉はケースの傍まで歩み寄ると、力強くそれを踏み付けた。
それは彼にとってただ苛立ちに任せただけの行為に違いなかった。しかし、彼の人生を象徴する行為と言っても過言ではない。なぜなら彼は、その為に鍛え上げられ、その為に送り込まれた人物なのである。
現在、天草組は組を二分する内部抗争の真っ最中だ。それは先代の組長、天草時貞の死を端にした後継者争い。彼、張偉と時貞の息子、天草恭介の戦いであった。戦況は現在、張偉の圧倒的有利で進んでおり、既に最終局面、つい先日、恭介の潜伏先は割れた。後は奴、恭介を始末するのみだった。
しかし、その為に放った部下、否、刺客と表現した方が正しいだろう。刺客からの事後連絡が彼の元に来ない。時計は確認していないが、定刻はもう、三十分も前に過ぎているという感覚が彼にはあった。
「遅い…遅すぎる! くそっ……」
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