プロローグ

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 尻餅を突き、右手で顔を覆った張偉から呻き声が漏れる。衝撃の正体は蹴りだった。一瞬ではあるが、自分を襲う黒い靴底を、彼は見た。  本来なら、中国拳法の達人でもある彼には避けられるはずの攻撃だった。しかし、苛立ちは彼から冷静さを奪い、見事に成功した不意打ちは彼から思考力を奪った。スーツの内側にある拳銃の存在を忘れ、反撃に転じることも無く、彼は問う。 「だっ、誰だ貴様らは!」  そこに立っていたのは男女の二人組だった。  すらりとした細身の男は女の左手に立ち、黒いスーツに身を包んでいる。下は白いシャツに黒いネクタイ、足元は黒の革靴。綺麗に着こなされているそれらが、まるで喪服のように陰鬱な――。  男の右手に立つ女は学生服だった。茶色のブレザーに赤いリボン。スカートは深緑を基調にしたチェック。黒いストッキングに足元は茶のローファー。  靴の色からして、自分を蹴りつけたのは恐らく男の方だろうと張偉は思った。いや、実際には靴の色など参考にならない。なぜなら女の身長は随分と小さく華奢で、百五十センチあるのかどうかも怪しい。百七十六センチある彼の顔面を蹴り抜くことは、逆立ちでもしない限り不可能だろう。高校生、いや、まるで中学生にも成り立てのような少女だった。  二人は手を繋ぎ、同じ仮面を被っていた。その仮面は白くシンプルで、吊り上る形で瞳だけがくり貫かれている。  男が口を開いた。 「頼んだぞ」  男の目線は張偉を見下したままだが、その言葉は彼に向けられたモノではない。彼の問いに答えようとする様子は微塵も無かった。そして少女もまた、彼から目を逸らすことなく頷いた。  少女は右手を振りかざし、詠った。  その瞬間、少女の左目が仮面の下で真紅に輝くのを、彼は見た。引き込まれる程に艶やかなその紅色を。息を呑む程に鮮やかなその紅色を。 『悲願無く 吊り輪の先の 彼岸在り』  張偉の瞳から、先程まで確かに存在していた生気や気概が抜け落ちる。死人のように虚ろになったその目を確認した男は、どこから取り出したのか、一本のロープを床に投げ捨て、静かに扉を閉じた。
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