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さて観覧車に押し込んではみたものの、狭い空間に、こんなにいい男とふたりきりというのは、なかなか緊張する場面だ。
息を飲む音さえ聞こえそうな距離感。
すると彼が、ポツリと言った。
「お前、あの店の社員か?」
美百合が、日々どんなに苦労して駆け回っているのか、この人は少しは気づいてくれているのだろうか。
ううん。気づかれていない自信はあった。
というより彼が美百合に無関心だったという、悲しい現実を知っているだけだが。
デートを始めて半日たつが、果たして龍一は美百合の名前くらい覚えてくれたのだろうか。
「『お前』ってのやめてくれる?」
探るために言ってみると、
「お前こそ、『あんた』ってのやめろ」
と言い返された。
前にも思ったけれど、このポンポンとやり取りされるポップコーンのような会話がすごく楽しい。
「学生なの。あの店は、朝と夜、土日祝日は丸一日ほとんど入ってる」
こうなりゃ美百合の情報を、とことん彼に与えてみよう。
少しは龍一の心のどこかに引っかかるかもしれない。
「なんでそんなに?」
思ったよりあっさりと、何かが彼の琴線に触れたようだ。
それが何かさっぱりわからないけれど、
「学費と生活費稼ぐ為に決まってるじゃない」
と普通に言う。
「親は?」
ああ、そうかと合点がいった。
龍一は大事なお母さんを亡くしたばかりらしいから、私も一緒なのかと同情してくれたわけだ。
うん、その点は実は同じだったりする。
「母親が死んで、家を出たの。私の父親は最低なヤツで……。顔も見たくない」
言わなくてもいいことまで、ついいつもの調子で続けてしまい、龍一は、
「お前の父親って……」
言いかけて口をつぐんだ。
どこまで踏み込んでいいのか逡巡している様子がよくわかる。
このまま困った顔を見ているのも楽しいけれど、
「ねえ、キスしないの?」
「は?」
はぐらした話題に、龍一はちゃんと乗っかってくれた。
「そういったオプションは取り扱っておりません」
龍一にしたら、きっと精一杯なのだろう。
ヘタクソな冗談がうれしい。
その上『ディナーに』とまで誘ってもらえて、美百合は本当に、舞い上がるほどうれしかった。
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