灰 桜

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― 肆 ―  灰桜は再び蕾に戻ってしまった。義母にだけ見えなかったのか、それとも皆に見えぬのか分からぬままだが、最早どちらでも良い。  あれほど目蓋が上がる事を切望していたが、花びらに覆われ顔すら見れない日々が続けば、それがいかに贅沢な願いであったのか思い知らされた。 「灰桜、君に会いたいのだよ。」  伊知郎が苦し気な声で語り掛けても、灰桜は沈黙したままだ。  顔が見たい―――と、飢えるように思う。  つるりと丸い額、真っ白な柔らかな肌、黒く長い睫毛、桜色の薄い唇。それらを思い出せば、更に飢えは深まった。  次までの開花の八日が一ヶ月も先の事に思えて、伊知郎は頭がどうにかなりそうだ。いや、既にもうどうにかなっているかもしれない。唯一の趣味であった書物すら、今は素通りしてしまうのだから。  開かない灰桜と二人でいる事に耐えきれず、部屋を出ると階段の踊り場に義母がいた。伊知郎の姿を仰ぎ焦ったように袖を触る。 「あの、伊知郎さん。」  伊知郎が踊り場まで下りると、義母が遠慮がちに言いながら寄ってきた。 「大丈夫でしょうか?最近、どこか様子が違って ―――嫌がられるとは思いますが、何かあったのではないかと。」 「お義母さんが心配なさる様な事は何も。」 「待って。」  伊知郎が立ち去ろうとすると、手首を掴まれて驚く。握られた手首を凝視すると、義母が慌てて手を離した。 「すみません。思わず。」  恥じ入るように顔を伏せるする義母に微かな疑惑が湧いた。  まるで恋でもしているような。いや、馬鹿な。10も年下の伊知郎へ恋などする筈もない。  義母へ湧いた疑惑を鼻で笑い、即座に打ち消した。 「いえ、構いませんが。外出したいので、もう良いですか?」 「伊知郎さん、少し話をしませんか?」  いつもならあっさり引き下がる義母が、今日はやけにしつこい。灰桜の顔が見えぬ事に悩んでいるのだと言っても、見えない義母に理解できるとも思えない。頭が可笑しいと思われるだけだろう。 「しません。だって、恋の悩みですから。普通は親に相談しないものです。」  引き下がってもらう為についた嘘だ。  しかし、伊知郎のおどけながら放った冗談のような言葉へ、目に見えて義母が傷付いた顔をした。今の何処に傷つく要素があったと云うのだ。  疑惑が半分以上確信へと傾き、ぞっとなった。
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